古人の銘文に学ぶ、ユーロシア大陸端っこ日本の歴史を辿る旅 その1
鹿野政直氏著の「近代国家を構想した思想家たち」のページをふと開いた。アマースト、日本の明治期のつながりをや新島襄始め、明治初期の米国に渡った人々を調べるために手に入れた本の一冊。 幕末から明治期に1838-1906年にかけて、こんな主旨のことを語った思想家がいた。 今の日本は彼等の期待にそえたか、それとも憂い通りになったか、以下の思想家たちのことばをもういちど読み直し、自問してみたい。 江戸末期、渡辺華山は、1838年に「憤機論」の中で 「今天下五大州中、亜米利加、阿弗利加、オーストラリア 三州は既に欧羅巴諸国の有と成。亜細亜州といへども、僅かに我国、唐山、ペルシアの3国のみ。その三国の中、西人と通信せざるものは、唯我邦(くに)存するのみ。万万恐多き事なれども、実に杞憂に堪ず。論ずべきは、 西人より一視せば、我邦は途上の遺肉の如し、餓虎渇狼の顧ざる事を得んや 。」と語った。 中江兆民は1901年ごろ 「フランスでヴォルテールやルソー、モンテスキューを学び、帰国途中アフリカ、アジアの各地を回った。文明国人であるはずの英仏人らが、威張りちらし、その土地の人々を「犬豚」以下にしか扱っていないのを発見したことであった。前者は彼に、革命や人民主権についての明確な認識をはぐくんだ。後者は、いわゆる文明が侵略と裏腹の関係をなしていることを、その脳裏に刻み付け、アジアの人間としての自覚を深めた。帰国後、フランス学を教えるための学校仏学塾を開く一方、いくつもの漢学塾に入門し、漢学修行に精を出した。そこには、仏文を翻訳するにあたり訳語をみがくという意味と、 儒教や漢訳仏典を主とする中国の伝統思想に、民権や自由への根を探ろうとする意志がはたらいていたに違いない。彼には、福沢のように西洋文明をモデルとせず、それを超えるより普遍的な文明をという志向が打ち立てられていた 。」 1906年、岡倉天心は英文「茶の本」の中で 「平均的な西洋人は自己満足に安住して、自分たち以外の文化を理解しようとせず、茶道についても、例によって風変わりで子供じみた東洋のさまざまな奇習のひとつにすぎないと片付けてしまうことだろう。日本がこの平和でおだやかな技芸にふけっていた間は、西洋人は日本のことを野蛮な未開国だと見なしてきたものである。それが、近頃になって日本が満州を戦場にして敵の皆殺しに乗...