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日本の一首相が米国国会で演説。1875年福沢諭吉が著した「文明論概略」から検証

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先月, 同僚の東洋史研究家の韓国人教授が、日本の近代史で一番注目すべき図書は福沢諭吉の「文明論概略」だといってきた。 自分のクラスでは世界現代史でもアジア史のクラスでも生徒にこれを読ませ、アジアの近代を考えさせているというのだ。彼女は上海で東大でNY大で東洋近代史の研究をしてきており博士号をもち、大学で中国・朝鮮半島・日本を中心に近代史や文化史を教えている。 私は岡倉天心の「茶の本」が近代アジアを語るには以前から重要だと考えていた。同僚教授は自分も岡倉天心とターゴルの交流も研究したこともあるが、韓国や中国の知識人の間では少なくとも福沢の著書はそう考えているという。そんな「文明論の概略」を再読してみた。若い頃に授業で「学問のススメ」を読まされた経験があるが、これはあまりに前で「記憶にない。また川端康成の文学が好きで日本語を習い始めた昔の教え子が、大学で日本文学をとっているが福沢諭吉を担当教官に勧められて読み始めたが、どれか彼の代表作を紹介してほしいと連絡してきたので、ますます身を入れて「文明論概略」を読み始めた。 時も時、先週、戦後首相の孫である安倍が米国議会演説をすることになりその内容と彼の主義主張がどのようなものであるか、140年前のこの本が諭すところがまるで反映されているかを検証してみた。 確かにこの福沢諭吉の本は日本のアカデミック界ではアジア蔑視の思想だ、いやそうじゃないと論争を醸し出している。しかし私はギリシャ哲学者のプラトンが「Repubulic 共和国」で各種の政治体系を分類した章との類似を認める。似ていると思って読んだ。福沢の国家の成り立ち発展度はその国の市民の文明度や政治家の文明度と大いに相関関係にあると言っている。されば日本の首相演説を聞きイデオロギーを見る限り、まだまだ半文明国だと言わざる得ない。 福沢曰く「物事の道理を知るものは道理を知れば知るほど、自国の様子を明らかに知ろうとする、、 (しかし半文明国は)物事の道理を議論する際は、疑いをもってわからないところについては聞き出すという勇気を持たない。、、、社会にルールがないわけではないが、習慣の力が強くてルールとして機能していない。文明には外に現れる「事物」と内側に存在する「精神」の2種類がある。では、その「文明の精神」をはなにか、これは人民の「気風」である。この「気風」を