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Funny Japanese Commercial

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  http://youtu.be/kbA0xqY3T4g?list=FLWfoKCdu40sCBjHkXqCl0jw <iframe width="560" height="315" src="//www.youtube.com/embed/kbA0xqY3T4g?list=FLWfoKCdu40sCBjHkXqCl0jw" frameborder="0" allowfullscreen></iframe> ランキングに参加中です。こちらもお願いします。

おふくろの味?! アメリカのサンクスギビング料理と日本の肉じゃが、、、、世代をこえて五感も伝えられるか

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ここフロリダにも秋の気配がしだした強風のある日。民族衣装!!といっても浴衣を着てインターナショナルフェスティバルに行ってきた。ついでに色んな国の屋台料理に舌鼓をうった。フェスティバルといってもニューヨークやカルフォルニアなどのような多種な移民がいる訳でなく、せいぜいヨーロッパ、ラテン系、東南アジア系でした。ベトナムの生もやしと香草をいれたラーメンや、鶏肉の入ったパンシット・フィリピン料理、ソースが少しかかった焼き鳥ラオス料理を食べました。 もっともベトナム料理はメキシコ人の友人と地元ベトナムレストランにての、民族料理だった。店内に入ると香草と独特の香りがしてきました。しかし客はベトナム語でなくスペイン語と英語があふれていましたが。こうしてみると先ず、食事はとくに民族料理は耳でも味わうもんだなと気づきます。インドカレーを食べる時はやはり、シタールの音楽が恋しくなるし、タイ料理を食している時に側で英語でばんばんまくしたてられたら興ざめだし、やはりメキシコ料理のエンチラーダは、スペイン語訛りのウェイターに運んでもらいたいし、日本料理はわざとらしく「桜」の琴演奏がなくてもやはり日本語でイラッシャイマセと来たほうが気分がのる。 まもなくアメリカではサンクスギビングの祭日が来ます。 我が家も昨年、15年ぶりにサンクスギビング料理を成人した息子や娘と夫と作ってみました。「アメリカには伝統料理がない」「日本はいいよな文化もあるし、伝統料理があるから」とよく言われ、学校のカルチャーデーというと日本の親たちは稲荷さんやお団子をせっせともっていったものです。 息子や娘が幼いころは、日本に住んでいましたが、逆に日本では「アメリカの伝統的家庭料理を披露してほしい」と新聞社の取材を受けたものでした。そしてサンクスギビング料理を作ってみました。ではアメリカのサンクスギビング料理って何でしょう??? アイルランド・ドイツ系移民4世代目の夫の実家のサンクスギビングは、 ターキー七面鳥にこんがりとやいたパン各種野菜を刻んで、ナッツ、イタリアソーセージを炒めて一緒に詰め込み スーパーの紙袋(アルミフォイルでなく)に入れてオーブンで焼くのが我が家流。そして付け合わせにもその家の特徴がでるようで。我が家はマッシュポテト、スクワッシュ、カブ、小タマネギのクリーム煮、クランベリーソース(

侮れない田舎のスーパー! グローバル化の波がここまで

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オソルベし! グローバル化の波がここまで? 世界に開かれたいなかの スーパー いやあ、驚いた驚いた。ここ数年日本へ帰っているものの日常雑貨や食料品は買わないものだから、スーパーへ足を運んでなかった。そこでどんな物が売られており、どんな物が消費されているか、また何が田舎のじっちゃん/ ばっちゃんに人気か把握しておこうと思いいざ出陣!!? まず、店内には日用品(ドラッグストアで売っている商品を扱う)日曜大工用品 家電売り場、食品売り場、本屋、レンタルDVD屋、お好み焼き・鯛焼き・たこ焼きのとなりがドーナツ屋で、さらに特別催事場、お惣菜やが一つのレジで出来てしまう。米国の田舎に暮らしているものにとっては夢のような売り場が小さな町の高速インターそばにあった。 さらにその品数の豊富さは、こうしたスーパーマーケットの元祖であるアメリカの品揃えの遥か数歩先を行く。(ま、私の好みの商品が多いという意味でもあるが) しかもその場で荷造りセットが用意されている。段ボール箱/ガムテープ/荷造り用紐まであった。便利便利、 寮生活を始める大学へ進学した娘へ、日本の食料や炊飯器を送ろうとしていたから 私としては 渡りに船、至れり尽くせりのサービスである。  しかも平日だが本日は土用丑の日で、長蛇の列だった。外にはみだして並んでいる列から熱中症患者がでて救急車出勤のおまけつき。ウヘー、こんな人口の少ない3万人そこそこの町=伝統を重んじる保守町のどこからこんな老若男女が集まってくるんだろうか。老人だとて侮れない外国産の果物や、紅茶、ハイカラな化粧品や、カタカナ文字がひしめく日用品が 山盛りになって買い物かごの中に見え隠れしている。 数年前に都市部のスーパーに昼中に行った時、地域住民と交わる糧をしらずに定年を迎えた寂しげなおじいさんが一人、ここにも一人と散歩がてら買い物をしていた姿をみた。きっとおばあさんは定年退職したおじいさんを横目に、友人とすきな温泉、サークルに励んでいるんだろう。 グローバル化が田舎の食卓ですでに始まっていることに驚いた。 ランキングに参加中です。こちらもお願いします。

米国都市の中で最も変化発展のあった町、フロリダ州タンパ、1800年代末期の繁栄復活か

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北米に足を踏み入れて、早30年。 その間、訪れた都市や空港は数知れず、 車で、または1日数10マイルも歩いて通過した町、飛行機の旅で必ずと言っていいほどに経由した町いろいろありました。いつも利用する都市ニューヨーク、ボストン、 そしてお客様をつれて観光にポーツマス、ケープタウン、ニューポート、ハートフォード、ニューベッドフォード、コンコード、ナイアガラの滝、バッファロー、ニューヘブン そしてちょっと遠出してプリンストン、フィラデルフィア、ワシントンDC、シャーロット、 バーミンガム、アトランタ、マイアミ、キーウェスト、アパラチア山脈、モントリオール、シカゴ、ケベック、アーリントン、ボルダー、チューソン、フラッグスタッフ、グランドキャニオン=ノースリム、ロス、サンディエゴ、サンタクルーズ、ポーランド、シアトル、ソルトレーク、等等。これらの各都市は、米国に長く住んでおられる諸兄、諸姉であれば、位置とどこの州ぐらいはピンと来るであろう。 そう、一度ならずともこの30年で訪れた北米の都市は枚挙にいとまがない その中でも、ここタンパ市の最近30年の発展には目をみはるものがある。タンパベイからメキシコ湾岸にかかる小さなタバコ産業と軍港だったタンパが、現在ではフロリダ第2の都市になり、高層ビルが立て並び、四六時中渋滞が続く町に発展、拡大するなんてだれが想像しただろう。まるで新興国の大都市の開発を思わせる。 もともと、キューバと行き来の多かった港町で、葉巻やタバコ産業が1890年頃にさかんであった。その後、マイアミがコカイン他薬物輸入で1960年から1970年とボストン、サンフランシスコ、コロラドはボルダー等ではじまったカウンターカルチャーの隆盛にのってフロリダの文化の中心がマイアミに移ると、タンパの繁栄は色褪せていった。 そしてシニア市民の保養ぐらいの産業が残っていなかったこの町に何がおこったか。 1890年代の隆盛の面影、当時はホテルだった建物が現タンパ大学 1800年代末期の貿易、交易事情をものがたる地図 バンクオブアメリカのカスタマーセンター本部ビル 隣町の観光ビーチの町、セントピーターズバーグは私自身33年前、出来るだけ日本から離れて気候がいい留学先として選択した町だが、タンパはその東隣の町だった。そし

アカデミー賞 レッドカーペット入場取材から受賞を生で全編始めてみました。

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滞米30年以上になるのに、こちらも生まれて初めて, アカデミー賞の授賞式をレッドカーペット 取材から全編観てしまいまし た。 全米では進行役のエレンに話題集中。あれだけスターをもてあそんで、し かも憎 まれない彼女の司 会進行、 twitterがオバマの個人夫婦写真 を載せ た時より、67万リツイ ッタされ、 100万を瞬時で超 えた 瞬間的にパンク したとい う既 成事実 を生で自慢げに話 していたの も面白かったですよね 。 (わずか1時間で130万以上のリツイートがされ、ツイッター史上初めて100万リツイートを記録したのである。翌月曜日までには300万がリツイートした) ところで、ダラス映画主演男優のジャレッドのスピーチはスペイン語の教授の間では好評でした。特にベネ ズエラ出身の先生には、 でも時間内にスピーチまとめなきゃスマートじゃないと思 われている風潮の中、ちょっと 出過ぎ。私的には12 years a  slaveで助演賞 をとったケニア出 身 の若手ながら颯爽として 自分の言 葉を大事しながらのルピタ のスピーチが生で感動しましたね Gravity は受賞し過ぎ。たしかに映像では面白かったでしょう、特撮音楽編集、監督賞まで総ざらいだったもんね。これでサンドラ が主演女優賞もらっていったら、 おいおいとなるところでしたよ。 作品賞の12years a slave 作品賞は 個人的には受賞当然だと思います。 日本の配給会社は、今週末に公開す る 「それでも夜は明ける」なん て邦題にしたん だか??そののセンスを 疑います。しかも受賞式に、主演男優に光が当てられていなかったは残 念、彼の演技も光っていたのに。 主演女優賞は「8 月 の家 族」のメリルス トリープにとってもら い た かった。 あの好演はんな言葉で も表 現できない程、際 立っていました。「ブルージャズミン」もたま たまみましたが、主演女優のケイトにも、魅力 を感じなかったし、その受賞スピーチはもっと 首をひねりたくなりました。 みなさんは 主演女優は誰に投票しますか 。 やはりジャズミン映画主

ストラジティックプラン戦略的・抜本的経営改革が求められているアメリカの私立高校/大学

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経済が悪化し、経営が窮すると日本では「リストラ」ということばが其の年の流行語になるほど世を風靡した。 「リストラ」=首切りと日本社会ではとる風潮があった。「リストラの対象です」と名指された社員、契約社員は、自身の雇用存続がなくなると憂いてた。しかし「リストラ」はもともとReconstruction 再建の訳であるはずだから、「リストラ」イコール「雇用削減」ではないはずだ。このReConstruction ではなく、最近Strategic Planという経営改革用語を高校や大学という組織で働いていると耳にする。 実際、アメリカでも大企業の人事畑で働いていた義兄は映画「アメリカンファミリー」よろしく、数年単位で仕事先を転職し、90年代から2000年当初、次から次へと多数の人員縮小を会社の方針として強行し、また別会社でも同様の人員縮小の目的で雇われ、別会社でも強行してきたようだ。企業という組織は利益を得る組織でそれが目的なわけだ。 一方、学校、特に私立の小中高や大学というところは、経済が悪化するその荒波をまともに受け止め経営に反映されやすい組織である。収入が少なくなれば親達は、お金のかかる私立学校に子供送らなくなるからだ。しかし私設企業のように人員整理をして学校組織そのものの質の低下を招く訳にはいかない。なんせ学校の売りはその人員、教師の質であり、施設や環境であり、教育の質なのであるから。 私は、私立の保育/幼稚園から高校まで国際的に広がるある教育理念のもとに一貫経営されている高校で、さらに元々は慈善事業の盛んなキリスト教系のリベラルカレッジで働いている。その間にこのストラティジックプランを何度教員として説明されたか、ここでこのストラジティックプランとはどんなものをさすのかご紹介したい。 まず、それぞれの学校にはBoard Member 理事会がいる。学校組織には教師や校長、事務・学務・学生課の人事とは別に経営的関わっている内部監査の役目をする理事会がある。高校でも大学でもどちらでもこの理事会が言うことには、神経を峙てている。 こうした私立学校が企業や公立の学校と違うのは、この二つの学校に限ったことではないだろうが、上記の事実とは裏腹に自分たちの組織は盛んにボトムアップBottom UP であって、トップダウン  Tob Downではない

エスニシティー(民族)ごとに割り当てられた職業、アメリカンの社会混ざらないサラダボールだ

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この国には長年の移民の歴史があることは、皆さんもご存知だろう。 日本からは日本の移民政策によって1900年代はじめをピークに北米へ 職と富を求め船で移民してきた。ハワイへ米国西海岸へ農業、主に果樹園の働き手となり、ハワイのパイナップル農園、カリフォルニアのオレンジオーチャード、さらに植木屋、庭師、やがては果樹園オーナーとなって現地に根付いたかれらを日系人と呼ぶ。 日系人の場合は、実際に母国へ戻らない覚悟でやってきた移民のことを一世と呼び、その子どもを二世と呼んだ。この二世世代は、ハワイ州から、ワシントン州、オレゴン州、カナダ西海岸へ移民先も移動していった、特に太平洋戦争間際、きな臭さが世を風靡し邸来ると、現地になじもうと一世たちは子どもたちを現地の学校に行かせ、英語教育をうけさせ、自ら選択して同化していった。日系人社会にあった寺院もご多分にもれず、各宗派のお教も聖書に頻出するLord, Salvation といったことばで英訳されていった。第2次世界大戦中、この一世や二世たちが、敵国の子孫ということでスパイの汚名をかぶせ、何もない砂漠や大平原の収容所へ送られた(これに連名国のドイツ、イタリア移民はわずかの例外を除き収容所には強制移住されていない)。この日系移民政策によって、日系二世や三世以降は祖語の日本語を一世から教わらず、戦後は収容所から全米へ、教育を受け様々な分野に散らばっていった。 一方、他のヨーロッパ言語を母語とする移民たちや、戦後に移民となってきた中南米、アジア系、アラブ系、アフリカ系の移民たちはどうだろう。かれらは米国で生まれた移民の子孫をファーストジェネレーションと呼ぶ。日系人で言うところの2世にあたる。よって日系一世は今でもここ北米では英語でもIsseiという言い方をして、日系人に対しては別の勘定の仕方をする。 さて、今回リポートをしたいのは、この移民たちの世代の数え方ではなく、主に戦後、北米にやって来た移民たちの職業だ。 まず、あるトルコの田舎町の話から始めよう。私の友人のトルコ人の話では、いきなり豪華な御殿の並ぶ トルコの片田舎がある。どの御殿にも主人や働き盛りの男が不在だという。ある税金収集人が調べたら、どの家の男衆も米国に渡って、ピザ屋を営んでいるか、アメリカの主に東海岸のピザ屋で働いているという。 実際、私の友人も、ご