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子どもの社交術と会話 その2

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我が家には今、娘の交換留学生がオーストラリアから来ている。 シドニーにあるやはりシュタイナー高校の10年生。 昨日まで彼女をつれて、クリスマスのNY市内に3−4日繰り出した。 留学生と娘や息子の会話を聞くと、同じ英語なのにアクセントや言い回しが違っても言語のギャップはなし。 数千キロ離れていても、文化的な違いもファッションの違いも感じられない。 いや違いを見つけんとするばかりに、いつも彼女を矢面の中に立たせてる自分に気づく。 「エー、こういう時オーストラリアではどうするの」 「オーストラリアにもある?これ?」ってな具合。 娘と同じ16歳の彼女は、それでもいやな顔せずに一つ一つ丁寧にしかも相手を傷つけまいとしながら答えて行く。 たとえば「これ食べてみる?Would you like to try this?] 「Not particularly、、、」  「I prefer not to」とお父さんが英人だという彼女の家庭は、やんわりいつもこうして断るしつけをしているんだろうと、育ちの良さを垣間みる。 品格の良さなのか、アメリカのティーンエージャー同志の会話とにギャップを感じたりもする。

スマートフォ—ンと高校生

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中学生の娘も、携帯テキストに自分のお小遣いをつぎ込んでいる。 舞踏会のドレスを試着しに行った。限られた予算でどれを選ぶか、試着し、携帯で写真を撮り、さらに友達に公開してどれがいいか意見を聴く。おしゃべりより、テキストだと普段引っ込み思案な娘でも、男の子とだって携帯で簡単にチャットできる。 しかも電話のように対一人ではなく、対多人数と話せるのも、携帯を利用したチャットやソーシャルネットワーキングの良いところだとのたまう。 私が高校生だった頃は図書館でよく友達と勉強し、分からないところは友達に聞いた。 しかし今はスカイプ(インターネット・フリー電話)で相談しながら、グループ発表や宿題の分からないところを同時に5ー7人位の友達とネット上で話し合い,ネットでリサーチをしながら、ワープロプログラムや、パワーポイントで発表形式に仕上げて行く。図書館で書籍の匂いに囲まれ、参考文献を山のように高く机に並べて、友達と作業を進めて行く姿はもう見られないのか。 しかしそれでもこの娘と息子の学校の抵抗はつづく。 教科書は小中高すべて生徒自身の手作りで、解剖学から歴史、数学まで色鉛筆で鮮やかに学んだことを教科書として残して行く。 天体望遠鏡を自ら解体しつくり直す作業や、気象学では小型飛行機で雲を空中から観察することまでやってくれる。劇も衣装から、舞台装置、照明器具、すべて自分たちで作り上げて行く。 先日も創始者であるオーストラリア人の思想に基づいて ドイツ語の先生が13ー4歳の中学生を中心に、手作りのウィーン舞踏会を開いた。 この手作りプチ舞踏会のコーディネートを担当したが、予算がないすべて手作りでやろうというだけに、親がウィーン、ハプスブルク家時代から続いているケーキを焼き、子供たちはマナーからエチケット、そしてオープニングのプロムナーデのワルツを体育の授業で何週間も練習した。当日配るプログラムの制作している中、この舞踏会が15歳という年齢にかなった行事ではないかと妙に納得した。

Peer Pressureって何? 娘、息子それぞれの社交術

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大学新入生として寮生活を始めた息子が、クリスマス休暇で帰って来ました。 といっても、大学進学すると「当分は家に帰って来れないからね」といわれ、まるで今生の別れのように、堅く抱きしめた息子でした。 しかしいざ、新学期にはいると車で2時間半のNYに行った為か、 頻繁に宿題とランドリーをもって帰ってきては、地元の大学へ行った男・女友達を集めて同窓会がはじまり、後輩が訪ねて来ます。母親は「昔の参考書籍を送ってくれ」、カフェテリアで食べる暇がないと聞くと、ケアー便を送ったりと甲斐甲斐しく世話をやきます。 先日、そんな離れた息子をみて、彼から友達付き合いの妙技、そして息子たちが12年間伴に過ごした17人(幼稚園から高校までの一貫私立校で、各学年一クラス)の友達との付き合いから、いろいろ学びました。 私のかよっていた小中学校や、大学へ入ることだけが目的の誇りかぶった進学高校などの人間関係と随分違います。この12年間にどんな友達を築き上げたかが、今の息子や、娘の人となりになっていることにも頷かされます。

モンタギュー町、反原発運動の町、歴史をひも解く

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「モンタギューだより」と題してこのジャーナルを書き始めて早、3年。今回はこのモンタギュー町の歴史、1960年代以降、もともと大学が集まって全米でも屈指のリベラルな町について詳しく述べてみましょう。ここモンタギューといえば、この辺では反原発の直接行動をおこした運動家や、カウンターカルチャーの60年代の学生らが「大地に還れ」運動として、学生を終えても都会へ還らず、コミューン運動を始めました。我が家の近くにある「モンタギューファーム」は、いろんな市民運動家が創設しました。女性運動家、人種を隔てた市民啓蒙運動、反原発運動、環境運動の強者男女の若者が共同生活を始めました。さらに1800年代前半のアメリカ産業革命の面影を残す工場跡地ターナーズフォールは、もともとインディアンが虐殺にあったエリアでもあり、1900年代はじめのキリスト教異端児たちが自分たちのスピリチュアル信仰を謳歌した町プレザントレークも混在する町として、地元ニューイングランド地方を始め、全米アメリカ人なら大抵は聞いたことのある名前として知られています。 先日、ガンジー翁の「サチャグラハ」(訳注:真理を探究する)雑誌「サルボダヤ」にこのモンタギューの町と隣の町アマーストの歴史について拙文を掲載しました。まずはそれを転載することにします。 アマーストは自由な気風の大学町として、ベトナム反戦運動に始まる60年代の学生運動や、80年代後半の女性学の起こり、90年からのイラク反戦運動など市民運動が、全米の中でも活発な地域です。近辺には名門大学からリベラル大学まで5大学が集まっています。 アマースト大の他に、アート系のリベラルなハンプシャー大学、アメリカを代表する女流詩人エミリー・ディキンソンも通った最古の女子大マウント・ホリヨーク大学、そして数々の大統領夫人を卒業生にもつ女子大スミス大が集まっており、同性愛者が堂々と町で腕を組んであるいても、何の違和感もない開放的な町として、市民運動や学生運動が昔から盛んなのも頷けます。