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平和祈願像

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平和祈願像  Statue of Prayer For Peace 終戦記念日8月15日早朝 父の介護の合間 金華山山麓の鬱蒼とした市中の公園に入って行くと この平和祈願像を見つけました 75年前人々は米軍の空襲に市中を彷徨い山中に逃れました 朝からうだる様な暑さが続く夏の日に 闘いが一刻も早く終わり平和が来ることを希求した姿がこの像です  On the anniversary of the day WWII ended, Aug 15, I walked the mountain early morning having a break from taking care of my father. I found this statue standing in the quiet, cool woods. 75 years ago, on 1945 boiling summer, people were trying to escape from US air raids over the city and evacuated to this shaded area. This statue represents for the people's prayer for an end the fighting, and hoping for peace. household.  45年後、日本やアジアを空から海から攻めていた一米兵士の息子は反戦を唱えて1人の日本女性と出会い結婚し 日米の文化をになった息子と娘をもうけました その子供たちも親の平和への強い願いを受け継ぎ 公正で平和な世界を望んで育ちました その 一方 1945年当時 空襲から逃げ惑ってた少年はやがて歳を重ね老いておじいちゃんになりました 第二次大戦当時 日本攻撃に参加しただろう米国兵士の息子である婿と孫とは言葉が片言しか通じないにも関わらず 愛おしく可愛くてしようがないようです。しかしこの世で生身で会える時間には限りがあります 孫たちは何とかして 世界中で猛威をふるっているコロナ禍の中 余生あまりない祖父母に一時でも寄り添いたいと帰国してきます 平和を祈りあらゆる暴力 新型ウィルスの恐怖から自由で安全で平和な世界を願って 45 years later, a US soldier...

侮れない田舎のスーパー! グローバル化の波がここまで

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オソルベし! グローバル化の波がここまで? 世界に開かれたいなかの スーパー いやあ、驚いた驚いた。ここ数年日本へ帰っているものの日常雑貨や食料品は買わないものだから、スーパーへ足を運んでなかった。そこでどんな物が売られており、どんな物が消費されているか、また何が田舎のじっちゃん/ ばっちゃんに人気か把握しておこうと思いいざ出陣!!? まず、店内には日用品(ドラッグストアで売っている商品を扱う)日曜大工用品 家電売り場、食品売り場、本屋、レンタルDVD屋、お好み焼き・鯛焼き・たこ焼きのとなりがドーナツ屋で、さらに特別催事場、お惣菜やが一つのレジで出来てしまう。米国の田舎に暮らしているものにとっては夢のような売り場が小さな町の高速インターそばにあった。 さらにその品数の豊富さは、こうしたスーパーマーケットの元祖であるアメリカの品揃えの遥か数歩先を行く。(ま、私の好みの商品が多いという意味でもあるが) しかもその場で荷造りセットが用意されている。段ボール箱/ガムテープ/荷造り用紐まであった。便利便利、 寮生活を始める大学へ進学した娘へ、日本の食料や炊飯器を送ろうとしていたから 私としては 渡りに船、至れり尽くせりのサービスである。  しかも平日だが本日は土用丑の日で、長蛇の列だった。外にはみだして並んでいる列から熱中症患者がでて救急車出勤のおまけつき。ウヘー、こんな人口の少ない3万人そこそこの町=伝統を重んじる保守町のどこからこんな老若男女が集まってくるんだろうか。老人だとて侮れない外国産の果物や、紅茶、ハイカラな化粧品や、カタカナ文字がひしめく日用品が 山盛りになって買い物かごの中に見え隠れしている。 数年前に都市部のスーパーに昼中に行った時、地域住民と交わる糧をしらずに定年を迎えた寂しげなおじいさんが一人、ここにも一人と散歩がてら買い物をしていた姿をみた。きっとおばあさんは定年退職したおじいさんを横目に、友人とすきな温泉、サークルに励んでいるんだろう。 グローバル化が田舎の食卓ですでに始まっていることに驚いた。 ランキングに参加中です。こちらもお願いします。

坂口安吾の「日本文化私観」を読みながら、スリランカの旅はつづくSri Pada Journal II

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スリランカの旅は続く、 家族全員iphoneを携帯してスリランカの古代遺跡と仏教遺跡を廻った。 娘たちはiphoneから70年代以降の音楽をカーステレオで流したり、ラジオで地元の音楽を聴いたり、息子はiUniversityで英国や米国の有名大学の講義を聴き、 私と仏教僧は日本のiBunko青空文庫書棚より、著作権の切れている日本の書物をネットで貪り読んだ。技術進化によって旅のスタイルは変わった。ビートルを聞きながら、シリギリヤ遺跡の標高500m以上もある岩山を目前に、道なきジャングルを砂嵐をあげながら軽自動車で走り回った。それもほとんどが数年前までは考えられない旅行者が狙われていた内線地であった。 マレーシアでも、スリランカでも日本より無料ネットアクセスWiFi が、ある程度のホテルカフェにあるので、それらに停車するたび音楽や書物をダウンロードして聞きまくり、読みまくった。ネットアクセスがないところでは、スリランカの書物、仏教書籍を手にホテルで、車内で読書を楽しんだ。時には地元の人に呼ばれて家や寺院を訪ね、お茶や飲食をごちそうになることもあったが、24年前と 随 分と様変わりし、心の有り様も、遺跡の見方さえ変化した旅となった。 現地で勧められた日本の作家の書物に 坂口安吾の「日本文化私観」があった。下記の文章が妙に訴えかける。「タウトが日本を発見し、その伝統の美を発見した事と、我々が日本の伝統を見失いながら、しかも現に日本人であることの間にはタウトが全然思いもよらぬ距りがあった。ー略ー我々は古代文化を見失っているかも知れぬが、日本を見失う筈はない。ー略ー湾曲した短い足にズボンをはき、洋服を着てチョコチョコ歩き、ダンスを踊り、畳をまくって安物の椅子、テーブルにふんぞり返って気取っている。それが欧米人の眼から見て滑稽千万である事と、我々自身がその便利に満足していることの間には、全然つながりが無いのであるあ。我々が彼らを憐れみ笑う立場と我々が生活しつつある立場には根底的に相違がある。我々の生活が正当な要求にもとづく限りは彼らの憫笑がはなはだ浅薄でしょうがないのである。」 確かに24年前スリランカを訪問したときより、サリーを着ている女性は少なくなった、南スリランカではむしろイスラム正装の女性が目だった。また都市部の住宅は近代化され、彼らの携帯電...

Sri Lanka スリランカ 仏足山の月は語る

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Galle, Sri Lanka 仏足山の月は語る 今夏 夫と成人前の息子と娘と日本で落ち合って スリランカへ佛教遺蹟を巡礼した。 スリランカへ発つ前に、「何故スリランカなのか」と問われても返答のしようがなかったが、今帰路に着き本当に来て良かったと実感する。 いつも自分のスケジュールは自分で立てるからと親の干渉に贖う子供らも 今回のスリランカ行は素直に従った 地元の仏教僧の案内で一枚岩の山を上ったり、つい一年前までとくに旅行者は足を踏み入れられなかったない地へ家族で回った。 海抜2200mにそびえ立つ聖山に暗がりの中登頂したり、小さなスズキのレンタカーにのって、未舗装の道を膝を抱え、荷物に潰されそうになりながら何日も揺れ続けた。 九州と四国を足した面積の島国を南は数千年以上も前から栄えた王朝があったゴールから 北は仏教の聖地 スリランカ版竜宮城のナガディバ島まで走行距離2000kmを一週間半で走り抜いた。 私も夫も それぞれ1988年の平和行脚と奉仕活動や、1991年北インドのチベット仏教盛んなラダックへ来た際にランカへも来ている。また家族では 2004年のクリスマスに来る予定だったが直前 乗り継ぎ空港で津波のニュースを聞き、入れなかった地であった。 コロンボ空港に降り立つとそこは、もう20数年前のスリランカの様相からすっかり変わった近代空港になっていた。客の風貌も完全burkaに身を包んだイスラム教徒の母親が子どもを何人も従え闊歩しているかと思えば、中国人の子供の団体が我が物顔でゲートを乗っ取っていたり、 最近世界中の空港で見かける韓国人女子大生グループ旅行者や ロシア人グループと、20年前のスリランカよりずっと多彩になっていた。しかも空港に降り立ってすぐ、スマフォでネットが使用できた。 電化製品の免税店が空港内を所狭しと軒を並べている。ネットで予約しておいたスリランカのレンタカー会社から迎えがきていたので、家族4人日本の予約した軽自動車に乗り込んだ。 空港から出ると 失礼ながら予想以上に様変わりした空港での驚きとは裏腹に 外は 25年前と寸分変わらぬスリランカの街の姿と喧騒があった。タイやインドではリキシャとかトゥクトゥクと呼ばれるオート三輪車が右往左往し その間を3-4人乗りでオートバイが隙間を縫うように走り去って行く...

古人の銘文に学ぶ、ユーロシア大陸端っこ日本の歴史を辿る旅 その1

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鹿野政直氏著の「近代国家を構想した思想家たち」のページをふと開いた。アマースト、日本の明治期のつながりをや新島襄始め、明治初期の米国に渡った人々を調べるために手に入れた本の一冊。 幕末から明治期に1838-1906年にかけて、こんな主旨のことを語った思想家がいた。 今の日本は彼等の期待にそえたか、それとも憂い通りになったか、以下の思想家たちのことばをもういちど読み直し、自問してみたい。 江戸末期、渡辺華山は、1838年に「憤機論」の中で 「今天下五大州中、亜米利加、阿弗利加、オーストラリア 三州は既に欧羅巴諸国の有と成。亜細亜州といへども、僅かに我国、唐山、ペルシアの3国のみ。その三国の中、西人と通信せざるものは、唯我邦(くに)存するのみ。万万恐多き事なれども、実に杞憂に堪ず。論ずべきは、 西人より一視せば、我邦は途上の遺肉の如し、餓虎渇狼の顧ざる事を得んや 。」と語った。 中江兆民は1901年ごろ 「フランスでヴォルテールやルソー、モンテスキューを学び、帰国途中アフリカ、アジアの各地を回った。文明国人であるはずの英仏人らが、威張りちらし、その土地の人々を「犬豚」以下にしか扱っていないのを発見したことであった。前者は彼に、革命や人民主権についての明確な認識をはぐくんだ。後者は、いわゆる文明が侵略と裏腹の関係をなしていることを、その脳裏に刻み付け、アジアの人間としての自覚を深めた。帰国後、フランス学を教えるための学校仏学塾を開く一方、いくつもの漢学塾に入門し、漢学修行に精を出した。そこには、仏文を翻訳するにあたり訳語をみがくという意味と、 儒教や漢訳仏典を主とする中国の伝統思想に、民権や自由への根を探ろうとする意志がはたらいていたに違いない。彼には、福沢のように西洋文明をモデルとせず、それを超えるより普遍的な文明をという志向が打ち立てられていた 。」 1906年、岡倉天心は英文「茶の本」の中で 「平均的な西洋人は自己満足に安住して、自分たち以外の文化を理解しようとせず、茶道についても、例によって風変わりで子供じみた東洋のさまざまな奇習のひとつにすぎないと片付けてしまうことだろう。日本がこの平和でおだやかな技芸にふけっていた間は、西洋人は日本のことを野蛮な未開国だと見なしてきたものである。それが、近頃になって日本が満州を戦場にして敵の皆殺しに乗...

夏休み旅日記 〜韓国・百済の地を訪問

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シン 신 セ 세 ルル 를     チョッ 졌 ッスm 습 ニ 니 ダ 다   .     カm 감 サ 사   보살핌 고마웠습니다. 즐거웠어요. 日本へ帰る前に20時間たちよったソウルで、叔母と呼んでくれる韓国人で自称姪っ子のようにかわいがっていた元下宿人とその母親に市内案内を頼み、いざソウルへまいらん。 ソウルでは、1980年代オリンピック前に何回かわたったソウルの様子とは打って変わり、日本のバブル期を思わせる経済成長ぶりと、町の勢いに圧倒されました。しかしその間を縫うように息づいていた地方文化に安堵もした。また昨年訪ねた開発甚だしい沖縄の開発ぶりも脳裏に思い浮かべもしました。 今回案内を依頼したのは、百済、新羅、高句麗三国に由来した史跡観光もしくは、その時代のなごりのある仏像鑑賞。帰国の間に、地元ソウルの環境運動に関わっているという下宿人に韓国の環境問題の取り組みも尋ねた。 母親とやってきた私をアメリカのオンマとよぶ下宿人は、はしゃいであちこち案内すると躍起だった。