エスニシティー(民族)ごとに割り当てられた職業、アメリカンの社会混ざらないサラダボールだ

この国には長年の移民の歴史があることは、皆さんもご存知だろう。

日本からは日本の移民政策によって1900年代はじめをピークに北米へ
職と富を求め船で移民してきた。ハワイへ米国西海岸へ農業、主に果樹園の働き手となり、ハワイのパイナップル農園、カリフォルニアのオレンジオーチャード、さらに植木屋、庭師、やがては果樹園オーナーとなって現地に根付いたかれらを日系人と呼ぶ。

日系人の場合は、実際に母国へ戻らない覚悟でやってきた移民のことを一世と呼び、その子どもを二世と呼んだ。この二世世代は、ハワイ州から、ワシントン州、オレゴン州、カナダ西海岸へ移民先も移動していった、特に太平洋戦争間際、きな臭さが世を風靡し邸来ると、現地になじもうと一世たちは子どもたちを現地の学校に行かせ、英語教育をうけさせ、自ら選択して同化していった。日系人社会にあった寺院もご多分にもれず、各宗派のお教も聖書に頻出するLord, Salvation といったことばで英訳されていった。第2次世界大戦中、この一世や二世たちが、敵国の子孫ということでスパイの汚名をかぶせ、何もない砂漠や大平原の収容所へ送られた(これに連名国のドイツ、イタリア移民はわずかの例外を除き収容所には強制移住されていない)。この日系移民政策によって、日系二世や三世以降は祖語の日本語を一世から教わらず、戦後は収容所から全米へ、教育を受け様々な分野に散らばっていった。

一方、他のヨーロッパ言語を母語とする移民たちや、戦後に移民となってきた中南米、アジア系、アラブ系、アフリカ系の移民たちはどうだろう。かれらは米国で生まれた移民の子孫をファーストジェネレーションと呼ぶ。日系人で言うところの2世にあたる。よって日系一世は今でもここ北米では英語でもIsseiという言い方をして、日系人に対しては別の勘定の仕方をする。

さて、今回リポートをしたいのは、この移民たちの世代の数え方ではなく、主に戦後、北米にやって来た移民たちの職業だ。

まず、あるトルコの田舎町の話から始めよう。私の友人のトルコ人の話では、いきなり豪華な御殿の並ぶトルコの片田舎がある。どの御殿にも主人や働き盛りの男が不在だという。ある税金収集人が調べたら、どの家の男衆も米国に渡って、ピザ屋を営んでいるか、アメリカの主に東海岸のピザ屋で働いているという。実際、私の友人も、ご多分に漏れず一旗揚げんと、同胞の経営するピザ屋を点々と場所を変えながら働く。さらにボストンからワシントンDC米国まで、トルコの同じ町出身のトルコ人経営者ピザで北東部ギリシャ風ピザで覆われている豪語する。だから彼は仕事先にあぶれない。友人の兄弟はイスタンブール空港で働いていたり、トルコ国内で立派に働いているが、その兄弟よりも昼夜徹して米国のピザ屋で働く友人のほうが、実入りがいいらしい。だから、さらにトルコ国内より友人も米国へ呼び寄せている。



米国には、一つ民族でほぼ占有されている職業が多く観られる



例えば:ネイルサロン 西海岸で試したことはないが、東海岸は北部も南部もベトナム人で閉められている。ベトナム男性も女性も新しい移民たちはネイルサロンで働く。









ニューヨークマンハッタンの以前、ほとんどの生鮮食料品店や八百屋は、韓国人が経営していた。


ニューヨークのみならずボストンでもニューイングランドの田舎では昔からドライクリーニング店は中国人が相場だった。

前回投稿のボストンやニューヨークの日本料理屋のキッチンは、ほとんどがプエルトリコ人が、茶碗蒸しやトンカツを料理する。

すしを握るのは、大抵はアジア系の人相を持つ台湾人から韓国人になっている。客の前でニューヨークの寿司バーで数ヶ月修行して、握る。 と宣伝している。

そこのウェイトレスは、韓国系が多く、揚げ出し豆腐をAGE tofu エイジトーフと呼んだり、トロロ蕎麦をトトロとしか読めず、笑いを買う。

さらにニューヨークのクイーンズでは、通りが細かく細分化されここからここまでの地区がインド移民で形成されヒンドゥー語が飛び交う。私の知人の居住区域はペルー人が八百屋から、レストランを仕切っていて英語が通じない。また別の友人はペキスタン人が多いクイーンズにあるジャクソンハイツ地区の病院に看護師として勤めているが、英語が通じないと嘆く。

以前はこうした職業分化は、大都市に限られていた。
しかし今は、こうした大都市で働いていたクリーニング屋の中国移民の子が、教員試験を受け教師になったり、医師と弁護士といった専門職を身につけたり、大学院でMBA経営学修士を受け見栄えのいい資本投資家になったして親とは違う職業選択をするのは、親や祖父母の時代には金銭的には社会システムからも可能ではなかったが、今では違う職業に就いた子どもを親も誇らしく思う。一方、まだ新移民は都市ではもう職にありつけないので、地方にいって同業の仕事に就くという傾向もある。いわば、ギルト(同職組合)が依然と存在するのがアメリカだ。

もっとも一世紀以上前もヨーロッパから旧移民の親も同様だった。1800年代初頭の縫製工場に行けばアイルランド系移民にあふれ、戦後間もなくのベーカリーはほとんどがイタリア系移民が経営していた。



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