「水を 風を 身近に感じられますか」

サンクスギビング後は,日本の正月休み中にも通じるもったりした雰囲気がある。

ふっと張っていた気が抜けたような、冬の寒さがどこかで待っているような、けだるさがある。そのもったりとした雰囲気の中、森をあるいてみた。
温かい初冬の昼下がり、犬と散歩に出た。
数キロの森の中を淡々と歩いてみる。いつもの好奇心が芽生え、ここを行ったらどうなるだろうと
朽ちかけの立ち入り禁止の看板を横目に、どんどん森の奥へ奥へと入っていった。

子供によく読んであげた岡田淳の「はじまりの樹の神話」(理論社刊)の下りを思い出す。
大人も子供も感動を覚える本だ。
太古から大樹とともに現代の森にやってきた少女が、自分を見失っていることに気づく下りだ。

〜空気が動いているのを感じるか? ーー土の下で、水が流れるのを感じるか?ーー(わたしは)木が空気をきれいにすることを感じる。土が水をきれいにすることを 感じる。ウサギがわたしをみておびえていないことを 感じる。そこに住むことを土地が許してくれたことを 感じる。誰が作ってくれたのかわかっている家に住んでいることを 感じる。ーー

森を我が家の雑種犬マリーは狩りの習性もあって、どんどん単独で入っていき、私は落ち葉を踏みながら後へ続く。すると清水の音が聞こえてきた。清水も一筋だけでなく、何筋もあるような音だ。澄んだ清水の色は川底の地層を反影している。やがて風も出てきた。風はアンサンブルとなって耳に響いてきた。どうも風の動きは空気と何かががふれあう時にだす音のように聞こえてくる。
空気が動いているのを感じるというより、空気と私の鼓膜が、またはその上の衣服がふれあう音が聞こえてくるだけだ。
空気がどことも接触しなければ、音は出てこないのだろうか。これは一つの思想が一人歩き始めた時とも似ているのではないか。異なった意見と衝突するから、雑音がでてくるとも考えられる。

さて、話はまた自然の中の散歩に戻す。

自分の足下の土のその下の層、のまた下の層で流れる水は感じられない。粘土層ですっかり澄んでいる清水を口に含んでみる、だけど川底の土の下の層までは感じられない。

でも木が空気をきれいにしていることが感じられるような気がしてきた。
次に近くの大木に耳をあててみる。するとある木はとても居心地がいいのに、別の木は何も感じられない、むしろ受け入れられなかったような気配を感じた。

西アフリカはダガラ部族の友人から聞いた話と、アマゾンのシャーマンの話を植物学者が聞き取り書いた本の内容が頭の中をめぐる「同じ薬草でも、一本一本の習性とタイミングがある。ある薬草は今は忙しいから後にしてくれと、病人の癒しを手助けすることを断り、ある薬草は何それと一緒だったら癒してあげられるかもしれないと提言してくれる」という植物との会話である。ならなぜ、今癒してくれと病人はその薬草にせっつくのだろう。普段癒せる力のある薬草や、和漢生薬であっても、いつも癒せるとは限らないという話だと私は受け取った。植物も生き物、動物も、人間もそれぞれの思いとうらはらに相性とタイミングもわきまえなくては、せっかくの癒しも毒となるだろう。

結局この日は海に通じる近くの大河に行き当たらずに、戻ってきた。

どうも私はこうして耳を傾けた暮らしを忘れてしまっていたようだ。自然との共生、いろいろな考えの人々との共生、すべてを白紙にしてもう一度見直す時にきているかもしれない。

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コメント

  1. 少し22年前のアメリカ生活を思い出しました。
    確かにサンクスギビング、クリスマスと2ヶ月連続でお正月な気分でした。
    あのだれる感じ、懐かしいです(笑)。

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