7/27/2016

インバウンドビジネス: 海外ビジターを日本に迎える 先ずインフラ施設整備

インバウンドビジネス:海外ビジターを日本に迎えるには、
先ずインフラ施設整備を

数年前より個人的見解をブログ上で、facebook 上で、さらにはJapan Tourist Bureau観光局に「海外からのビジターを受け入れるにあたって設備整備をもっとしてほしいと」発信してきた。下記のように海外から日本へ帰国して気になった点を指摘した。
するとかなりの反応があった。日本に拠点をおく旅行社社員に多く読まれたと伝え聞く。
当時の私の指摘を振り返ってみると:
  1. 車椅子、ベビーカーのアクセス、公共交通機関が飛躍的に整備され拡充される中、スーツケースも含めたランプアクセスが絶対的不足している。地下鉄でもエレベーターがなかなかついておらず、古いものに敢えてエレベーターアクセスを入れるとホームの隅っこにあって見つけにくい
  2. 日本語以外の公共機関、公的私的の表示やサインがなく、まごつくこと、またそれにともなうスマフォやタブレットでの駅構内での日本語以外の対応が全くない
  3. wifiの設備を大幅に増幅させ、日本以外の国のスマフォ・携帯電話でもアクセスできること(日本以外ではどこの国でも同じ周波数が使われるが、日本のみが周波数の範囲が違うのでどれも使用できない)
  4. お金をかけないでも日本国内を旅行出来るような宿泊所や交通機関があってもいい。長らく円高が続いた後で円安になった途端、海外旅行者がうなぎのぼりに増えた。確かに中国、韓国、台湾の経済力貨幣の交換レートがよくなったのも、その原因である。外食はかなり安価でもできる。しかし現実には高価な通訳案内がつくパック旅行でしかなかなか国内をまわれない仕組みになっている。まわりたくてもどうしていいか、日本国内どこの主要駅でも右往左往している外国人観光客を見かけては、声をかけ道を教えてあげる。表示を訳してあげている。日本語以外でも比較的英語表示のある新幹線はパックツアーじゃなく個人で移動できるが3万円近くするレールパスを使うもしくは運賃が決して安くない。安価な在来線、高速バス、レンタカーで高速道路を利用となる日本語がどうしても必需となる。個人旅行とくにお金をかけないバックパッカーでも旅行出来るという国は、イコールその国がいかに経済的にも国として観光客に開かれているかというバロメーターになると考える。例えば、昨年の夏私自身も行ってきた、最近旅行者に開かれたキューバやミャンマー(ビルマ)は国内・海外資本の高級ホテル利用でしか旅行できなかった。
  5. さらに日本語以外の情報が極力限られている。英字新聞、しかしもっとこれだけ他言語、海外からの移民が雇用され、その子弟の教育の窓口を広げることが社会問題となっている以上、もっと各国語のラジオ局、テレビ局があってもよいではないか。欧米の言語でのマスメディアの媒介がもっと増えてもいいのではないか。 
  6. 日本は韓国や中国、台湾同様、携帯ですべてがまかり通る携帯中心国だ。こした暮らしぶりになって久しい。携帯アクセスが日本の携帯プロバイダー会社が提供する周波数と海外のそれと違うので、海外の携帯が日本国内では使用できない。ではもっと、安価で日本の携帯を借りられるようにできないものか。
  7. 最後に日本の暮らしの中になくてはならいコンビニストアでのメールオーダーの商品の受け渡し、宅配便の発注。これらは非常に便利だ。この便利なサービスをもっと日本語以外でも利用できるようにすすめてほしい。 たとえば旅行者なら、スーツケースを空港まで送れるサービスの拡充や、お土産の宅配便サービス利用など、日本へ帰国するたびに日本の宅配会社が国内の北海道や沖縄の離島まで隅々とした充実したサービス網におどろかされる。これをもっと他言語でもできないかと願う。

としたこところ、要するに日本がこれから観光立国として、また経済的にも発展する要因は多言語国家として発展していくことではないかと考える。
上記にリストしたものを一つ一つ検証していくことにしたい。今年の夏に改善されたものがいくつかあった。ランキングに参加中です。こちらもお願いします。 にほんブログ村 海外生活ブログへ

7/26/2016

考える力、感じる能力 ”sense” and ”think”

July 23, 2016

Ruth Ozeki ‘ A tale for the time being” をオーデイオブックで聴いて
大学で哲学を学び、この夏休みにアメリカの禅堂で住み込みで働きながら修行するという息子の友人が勧めた著書を読み終えた。読後感いっぱいの内容の濃い著書には、父親の仕事で幼児のころからアメリカで育った主人公が、その父親の事業の失敗で日本に戻り、日本の高校で卑劣なイジメにあいながら、寺院に暮らす得度したひいおばあちゃんからエンパワーメントをもらう様子が描かれている。主人公のためちゃんがダメな父親だと思っていた男から考える力と感じる能力が人にとっていかに大事かを諭されるといった下りもある。
考える力は現代のマス教育(多数の生徒を一度に教え込もうとする教室における教育を指す)における学力テストでは記憶する能力がどうしてによって優劣を決定されることが多いし、往々にしてそれでいかにその人の人生が決まってしまうかのように取られる。私は大学で言語を教えている、自分の生まれ育った第一言語以外の第二言語、第三言語を学習するには記憶によるものととられがちだ。しかし果たして記憶ばかりだろうか。これは言語を学習するばかりでなく、数式や公式、法則を覚えるばかりが数学じゃないのは誰でも分かる、そこから法則から導き出されなければならないものがあるのは、周知のことである。が言語を学ぶときもこの考える力が要求される。つまり記憶したものをTPO(時、場所、機会)に置き換えて当てはまる作業、そしてその応用、さらにはそこから総合的に自ら学んだものを総合的に判断して新しいものを生み出していく能力こそが考える力としておきかえられるのではないか。こうした力が現代社会の若者に求められていると声高に叫びたい。
日本でもアメリカでも東アジアの中国、韓国、台湾でもこうした質の良し悪しに関わらず、大量に児童、学生を教育し、テストの点数、偏差値のよいものが人生の勝ち組になれるとばかりの学びの場を与えてきた。そうしてできた成人した教育者、政治家、企業家、クリエーターはさらに同じようなクローンを生んでいく。それは道徳しての善悪の判断を殺めさせる。人として、人類世界の発展に貢献できるかというのは、一個人一つの国の物質的豊富さに依るものではないだろう。この判断こそが ’感じる能力’だと言いたい。’考える力’が記憶力優先、テストの結果重視のマス教育の結果だとしたら、’感じる能力’ 経済発展を重視する人々の欲望が私たちからその能力を剥ぎ取った結果だと考える。コンピューターを操作するのもこの経済発展物質的に豊かな暮らしへ、固執またそうしたものへの嫉妬などの感情の表れではないだろうか。
私たち人はこの’感じる能力’があるから、考えて生きられるとさえ思う。最近、私の周りにも「老い」が身近に感じられる機会が増えてきた。その度に自分に、また身近なものに「長生きする秘訣は、食事管理も適度な運動も大事だろう。しかしもっと本を読み知的刺激を取り入れること「考える力」と「感じる能力」をいかに保つかを大事にしてほしい」と力説したい。

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