考える力、感じる能力 ”sense” and ”think”

July 23, 2016

Ruth Ozeki ‘ A tale for the time being” 息子の友人が勧めた著書を読み終えた。読後感いっぱいの内容の濃い本だった。父親の仕事で幼児のころからアメリカで育った主人公が、その父親の事業の失敗で日本に戻り、日本の高校で卑劣なイジメにあいながら、寺院に暮らす得度したおばあちゃんから精神力を高めることを教えられる様子が描かれている。主人公のためちゃんがダメな父親だと思っていた男から考える力と、感じ                    A Tale for the Time Being: A Novel
る能力が人にとっていかに大事かを諭されるといった下りもある。 

考える力は現代のマス教育(多数の生徒を一度に教え込もうとする教室における教育を指す)における学力テストでは、考える力より記憶する能力の有無や優劣によって決まる。またその学力テストの結果で、その人の人生が決まってしまうかのように取られる。

私は大学で言語を教えている、
自分の生まれ育ち、最初に取得した第一言語は感覚や音でそれが正しい文章かどうか判断できる。しかしそれ以外の第二言語、第三言語を取得するには記憶力にたよるしかないと、とられがちだ。果たして記憶ばかりだろうか。

これは言語を学習するばかりではなく、数学においても、しかりである。

数式や公式、法則さえ覚えれが数学ができると信じる学習者も多い。大型公立高校に通う米人夫の十人もいる姪らもその典型だ。数年も前、姪の一人から、数学を教えて欲しいといわれ、ピタゴラスの法則を引用しこの問題文を解くのよと、法則から教えた。すると「Auntie どの公式をこの問題文に適用すればいいかを教えてくれればいいのよ」なんて言われた。そして、イエール大学の小学生対象の数学夏キャンプにいって優秀な成績で表彰された別の姪は、今は公立小学校で、算数の教師になっている。公式の成り立ちなんか必要ないわと、教える側になっても言っている。いかに学力テストで高得点を取るかが教師に要求されているのよ。そうしないと教育委員会の予算がおりないからと、特に学習に不利な環境の家庭の子供達に算数を教えている。

しかしこうした、数学の公式や、物理の法則がいかに導き出されたかを知っていなければ、応用もできないということを学習者は気付き、考えることを要求されるのではないだろうか。

実は言語を学ぶときも、この考える力が要求される。つまり記憶したものをTPO(時、場所、機会)に置き換えて当てはまる作業、そしてその応用、さらにはそこから総合的に学んだものを統合し、判断し、新しいものを生み出していく能力こそが考える力としておきかえられるのではないか。こうした力が現代社会の若者に欠けているから。もっと考えようと声高に叫びたい。

日本でもアメリカでも中国、韓国、台湾でもこうした大量に児童、学生を教育し、テストの点数、偏差値のよいものが人生の勝ち組になれるとばかりの学びの場を与えてきた。そうして育ったものが教育者、政治家、企業家、クリエーターはさらに同じようなクローンを生んでいく。それは道徳としての善悪の判断を殺めさせる。

人として、人類世界の発展に貢献できるかというのは、一個人一つの国の物質的豊富さに依るものではないだろう。この判断こそが ’感じる能力’だと言いたい。’考える力’が記憶力優先、テストの結果重視のマス教育の結果だとしたら、’感じる能力’ 経済発展を重視する人々の欲望が私たちから、その能力を剥ぎ取った結果ではないだろうか。コンピューターを操作するのもこの経済発展、物質的に豊かな暮らしへ、固執したものへの嫉妬心、感情の表れではないだろうか。

私たち人はこの’感じる能力’があるから、考えて生きられるとさえ思う。最近、私の周りにも「老い」が身近に感じられる機会が増えてきた。その度に自分に、また身近なものに「長生きする秘訣は、食事管理も適度な運動も大事だろう。しかしもっと本を読み知的刺激を取り入れること「考える力」と「感じる能力」をいかに保つかを大事にしてほしい」と力説したい。

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