7/26/2016

考える力、感じる能力 ”sense” and ”think”

July 23, 2016

Ruth Ozeki ‘ A tale for the time being” をオーデイオブックで聴いて
大学で哲学を学び、この夏休みにアメリカの禅堂で住み込みで働きながら修行するという息子の友人が勧めた著書を読み終えた。読後感いっぱいの内容の濃い著書には、父親の仕事で幼児のころからアメリカで育った主人公が、その父親の事業の失敗で日本に戻り、日本の高校で卑劣なイジメにあいながら、寺院に暮らす得度したひいおばあちゃんからエンパワーメントをもらう様子が描かれている。主人公のためちゃんがダメな父親だと思っていた男から考える力と感じる能力が人にとっていかに大事かを諭されるといった下りもある。
考える力は現代のマス教育(多数の生徒を一度に教え込もうとする教室における教育を指す)における学力テストでは記憶する能力がどうしてによって優劣を決定されることが多いし、往々にしてそれでいかにその人の人生が決まってしまうかのように取られる。私は大学で言語を教えている、自分の生まれ育った第一言語以外の第二言語、第三言語を学習するには記憶によるものととられがちだ。しかし果たして記憶ばかりだろうか。これは言語を学習するばかりでなく、数式や公式、法則を覚えるばかりが数学じゃないのは誰でも分かる、そこから法則から導き出されなければならないものがあるのは、周知のことである。が言語を学ぶときもこの考える力が要求される。つまり記憶したものをTPO(時、場所、機会)に置き換えて当てはまる作業、そしてその応用、さらにはそこから総合的に自ら学んだものを総合的に判断して新しいものを生み出していく能力こそが考える力としておきかえられるのではないか。こうした力が現代社会の若者に求められていると声高に叫びたい。
日本でもアメリカでも東アジアの中国、韓国、台湾でもこうした質の良し悪しに関わらず、大量に児童、学生を教育し、テストの点数、偏差値のよいものが人生の勝ち組になれるとばかりの学びの場を与えてきた。そうしてできた成人した教育者、政治家、企業家、クリエーターはさらに同じようなクローンを生んでいく。それは道徳しての善悪の判断を殺めさせる。人として、人類世界の発展に貢献できるかというのは、一個人一つの国の物質的豊富さに依るものではないだろう。この判断こそが ’感じる能力’だと言いたい。’考える力’が記憶力優先、テストの結果重視のマス教育の結果だとしたら、’感じる能力’ 経済発展を重視する人々の欲望が私たちからその能力を剥ぎ取った結果だと考える。コンピューターを操作するのもこの経済発展物質的に豊かな暮らしへ、固執またそうしたものへの嫉妬などの感情の表れではないだろうか。
私たち人はこの’感じる能力’があるから、考えて生きられるとさえ思う。最近、私の周りにも「老い」が身近に感じられる機会が増えてきた。その度に自分に、また身近なものに「長生きする秘訣は、食事管理も適度な運動も大事だろう。しかしもっと本を読み知的刺激を取り入れること「考える力」と「感じる能力」をいかに保つかを大事にしてほしい」と力説したい。

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