8/31/2011

日本のおへそ辺りで水のありがたさを実感


白山神社のおおもと、中居神社の懐にて

水田を眺めた墓地にお盆詣り
阿弥陀ケ滝下流
いつまでも、いつまでも清い水をいただきたいですね。そのためには滝に打たれてきましたが、自分に何ができるでしょう。ずっと後世代までも、この水が流れていますよう。涸れる事なく、民を獣を土壌を 潤しつづけてくれるよう祈るばかりです。

記紀・万葉の地へ、歴史を辿る旅 その2



雨が多かった夏休み、大和路へ足を運んだ。百済の地をちょっと訪れ、
その後日本へ帰ってきて訪れたい地。

昨年も近くまで行きながら訪れられなかった現在の奈良県桜井市、天理市、橿原市、明日香村へ赴いた。
震災後の復興、人々の安住の地であれとの祈りを胸に


石上神宮

石上神宮本殿門
黒塚古墳(柳本町)
箸墓古墳(昨年は卑弥呼の遺品出土と)





大神神社参道


石舞台古墳
橿原神宮

  
前方後円墳 崇神天皇陵 

いにしへの詩人は何を見、農民たちは自然と、どのように対話してきただろうか。自然の神は荒くれ河川の氾濫、橋の倒壊、家屋/田畑/雑木林をたちまちの飲み込んで行く。それでも豊穣の実りをもたらし、私達人類はおごらず、立て直してきたではないか。
三輪山、耳成山、天香久山を眺める
高松塚古墳

8/30/2011

古人の銘文に学ぶ、ユーロシア大陸端っこ日本の歴史を辿る旅 その1

鹿野政直氏著の「近代国家を構想した思想家たち」のページをふと開いた。アマースト、日本の明治期のつながりをや新島襄始め、明治初期の米国に渡った人々を調べるために手に入れた本の一冊。

幕末から明治期に1838-1906年にかけて、こんな主旨のことを語った思想家がいた。

今の日本は彼等の期待にそえたか、それとも憂い通りになったか、以下の思想家たちのことばをもういちど読み直し、自問してみたい。

江戸末期、渡辺華山は、1838年に「憤機論」の中で
「今天下五大州中、亜米利加、阿弗利加、オーストラリア 三州は既に欧羅巴諸国の有と成。亜細亜州といへども、僅かに我国、唐山、ペルシアの3国のみ。その三国の中、西人と通信せざるものは、唯我邦(くに)存するのみ。万万恐多き事なれども、実に杞憂に堪ず。論ずべきは、西人より一視せば、我邦は途上の遺肉の如し、餓虎渇狼の顧ざる事を得んや。」と語った。

中江兆民は1901年ごろ
「フランスでヴォルテールやルソー、モンテスキューを学び、帰国途中アフリカ、アジアの各地を回った。文明国人であるはずの英仏人らが、威張りちらし、その土地の人々を「犬豚」以下にしか扱っていないのを発見したことであった。前者は彼に、革命や人民主権についての明確な認識をはぐくんだ。後者は、いわゆる文明が侵略と裏腹の関係をなしていることを、その脳裏に刻み付け、アジアの人間としての自覚を深めた。帰国後、フランス学を教えるための学校仏学塾を開く一方、いくつもの漢学塾に入門し、漢学修行に精を出した。そこには、仏文を翻訳するにあたり訳語をみがくという意味と、儒教や漢訳仏典を主とする中国の伝統思想に、民権や自由への根を探ろうとする意志がはたらいていたに違いない。彼には、福沢のように西洋文明をモデルとせず、それを超えるより普遍的な文明をという志向が打ち立てられていた。」

1906年、岡倉天心は英文「茶の本」の中で
「平均的な西洋人は自己満足に安住して、自分たち以外の文化を理解しようとせず、茶道についても、例によって風変わりで子供じみた東洋のさまざまな奇習のひとつにすぎないと片付けてしまうことだろう。日本がこの平和でおだやかな技芸にふけっていた間は、西洋人は日本のことを野蛮な未開国だと見なしてきたものである。それが、近頃になって日本が満州を戦場にして敵の皆殺しに乗り出すと(日露戦争)、日本は文明国になったというのである。戦争という恐ろしい栄光によらねば文明国と認められないというのであれば、甘んじて野蛮国にとどまることにしよう。私たちの芸術と理想にしかるべき尊敬が払われる時をまつことにしよう。」

内村鑑三も1892年に「日本国の天職」より
「自利を以て社会の中心と見認るの人は人類中最も小にして最も賎しきものなるが如く自国を以て万国の中華と見倣すものは亦国民中最も弱く最も進歩せざるものなり、自国の強大のみを求めて他国の利益を顧みざりし国民が永久の富強に達せし事あるは余輩歴史上未だ曾て之を見認めざるなり、(中略)日本はただに他国の文明を吸収し彼等の千辛万苦以て吾等に供へし文明の美菓に飽き以て満足すめきものなるや、或は日本国も他の強大国と等しく世界の進歩に対し為す処ありや。

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8/10/2011

広島記念式典に参列して。2011夏、旅日記その2

高校生が脱原発の署名を訴え、快く応じる市民の方












20年ぶりになる広島の原爆の日、8/6近辺の行事に参加して来ました。


3.11以来の脱原発の勢いでにぎやかなのか、ここ数年8.6の祈念式典自体がお祭り騒ぎの賑わいなのか、計りきれない広島の街。全国から集まった人の気に当てられ帰ってきました。

旧友から「今年は広島盛り上がるよ!!、ぜひ8・6は広島へ」との言葉に応じるように、広島へ舞い降りました。

まずは広島平和ドーム前に慰霊を捧げました。懐かしい顔、新しい顔を認め、旧友がソーラー電気で供給するコンサートに参加する前に、
まずは平和公園を一回り。
韓国、朝鮮人被爆者慰霊塔
韓国、朝鮮人被爆者慰霊塔が平和公園内に移動していました。さだこさんの折鶴塔のすぐ手前、諸宗派の墓前の隣へ。韓国朝鮮文化の死者を見送る亀の上に鎮座しています。


 
広島原爆の日の前日、被爆者の方が木陰で子どもたちに体験談を話して聞かせています


さらに目新しいのは、広島市立平和記念館が大きくなり隣のビルから入館して、体験談をかなり取り入れていること。子供が夏休みにもかかわらず、学校、自治体単位で見学に来ています。





ぜんぜん人気がなかったけど、平和記念館の裏あたりの平和公園内に国立被爆者慰霊館がありました。展示というよりは、ここで一時涼んであの日に思いを馳せてくださいといった感の建物には、瞑想の部屋のような遺影や故人のお名前が連ねてあります。
川沿いではあちこちで野外コンサートが8/5にあります。右翼も中革もいるようで、機動隊私服警官が暑苦しく平和公園を囲っています。

8/5夜には旧友の用意した市民運動の交流会会場で宿を借ります。
しかし交流会も各種講演会も、イベントにもいっぱい出席したかったのですが、時間がずれていたり、情報が入らなかったりと思い通り参加できませんでした。

こんなとき、広島駅前で広島市の職員が情報を集めておいてくれたらよかったのに。もっと駅前で資料をいただいたとき、強く要望すればよかったかな。それは広島市のみならず、ほかの市町村でも感じます。せっかくJR駅構内に市の観光案内があっても、市民の行事までは把握しておらず、もっと広く市制のみならず、住民の情報版の役割をすればといつも願っています。

各種行事に参加できなかったものの、交流会の様子は疲れて休んでいた部屋にも伝わってきます。翌朝早速の関西からやってきた若い方と長年さまざまな活動をしているという女性と情報交換しました。今日び、ビジネス界ならずとも、こうしたボランティアで手弁当でやってきている人々の交流会はアメリカでも日本でも盛んです。

8/6当日は昨夜遅くまで市民運動かの人々は交流会と称して飲み会が会ったようですが、私は早々と寝ました。が同室の大阪、東京、神奈川から来てた情勢たちは、今朝原爆投下同時刻の8時に平和ドーム前で座り込み、ダイインという我が友人らの団体の呼びかけに参加すると7時にはチェックアウトして、目の前の平和ドームへ向われたようです。一方、私は数十年ぶりの公式式典参加をしたかったので、彼女から遅れること数分、平和公園に向いました。式典会場のテント内に入るための列は7時半にはもういっぱいで、テント内に入れるか危ぶまれましたが、何とか強行突破ならず現地で出会った大阪からの別の旧友を見つけ何とか入りこみました、写真のような結構いい位置で、遺族、被爆者、認定外被爆者、来賓、外国客、一般客と区別された座席が整然と数百席あったでしょう。そのうち一般席をその場で落ち合わせた訳でもないのに、知り合いと確保できました。