11/26/2014

Funny Japanese Commercial

 

http://youtu.be/kbA0xqY3T4g?list=FLWfoKCdu40sCBjHkXqCl0jw

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11/02/2014

おふくろの味?! アメリカのサンクスギビング料理と日本の肉じゃが、、、、世代をこえて五感も伝えられるか

ここフロリダにも秋の気配がしだした強風のある日。民族衣装!!といっても浴衣を着てインターナショナルフェスティバルに行ってきた。ついでに色んな国の屋台料理に舌鼓をうった。フェスティバルといってもニューヨークやカルフォルニアなどのような多種な移民がいる訳でなく、せいぜいヨーロッパ、ラテン系、東南アジア系でした。ベトナムの生もやしと香草をいれたラーメンや、鶏肉の入ったパンシット・フィリピン料理、ソースが少しかかった焼き鳥ラオス料理を食べました。

もっともベトナム料理はメキシコ人の友人と地元ベトナムレストランにての、民族料理だった。店内に入ると香草と独特の香りがしてきました。しかし客はベトナム語でなくスペイン語と英語があふれていましたが。こうしてみると先ず、食事はとくに民族料理は耳でも味わうもんだなと気づきます。インドカレーを食べる時はやはり、シタールの音楽が恋しくなるし、タイ料理を食している時に側で英語でばんばんまくしたてられたら興ざめだし、やはりメキシコ料理のエンチラーダは、スペイン語訛りのウェイターに運んでもらいたいし、日本料理はわざとらしく「桜」の琴演奏がなくてもやはり日本語でイラッシャイマセと来たほうが気分がのる。

まもなくアメリカではサンクスギビングの祭日が来ます。
我が家も昨年、15年ぶりにサンクスギビング料理を成人した息子や娘と夫と作ってみました。「アメリカには伝統料理がない」「日本はいいよな文化もあるし、伝統料理があるから」とよく言われ、学校のカルチャーデーというと日本の親たちは稲荷さんやお団子をせっせともっていったものです。

息子や娘が幼いころは、日本に住んでいましたが、逆に日本では「アメリカの伝統的家庭料理を披露してほしい」と新聞社の取材を受けたものでした。そしてサンクスギビング料理を作ってみました。ではアメリカのサンクスギビング料理って何でしょう???

アイルランド・ドイツ系移民4世代目の夫の実家のサンクスギビングは、
ターキー七面鳥にこんがりとやいたパン各種野菜を刻んで、ナッツ、イタリアソーセージを炒めて一緒に詰め込み

スーパーの紙袋(アルミフォイルでなく)に入れてオーブンで焼くのが我が家流。そして付け合わせにもその家の特徴がでるようで。我が家はマッシュポテト、スクワッシュ、カブ、小タマネギのクリーム煮、クランベリーソース(これは大抵、缶づめ)、グリーンビーン(ささげ豆)です。
15年ぶりにと書いたのは、ここ15年間お客様で夫の義理の兄の家に姪っ子や姑や義父が集まってごちそうになっていたから。何か一品パイかサラダを持って行くだけが、次男の嫁である私の役目でしたから。メインのターキーを焼くことも、つきだしのおかずに口を挟んで作ることもなかったわけです。

しかし姑が亡くなり、その味を引き継いで来た義理の姉も妹も他界してしまった今、だれも教えられずに、自分の舌と鼻をたよりに再現することを期待されて久しぶりにターキー料理への挑戦でした。サンクスギビングに生まれた息子の誕生日は日本に一時帰国していたおりも特注でターキーを神戸から取り寄せたものでしたが、後は材料が揃わないと日本のおかずでごまかしていました。しかしアメリカではそんなごまかしは娘がゆるしません。一緒に料理した夫もこんなんじゃなかった? いやちがう何かこんなスパイスを入れていたと、まあ試行錯誤を繰り返し、漸く出来上がりましたのが上記の写真!
やっぱ少し味が違う。。。とほほほ、、ターキーはこげすぎちゃうし、いつも簡単に手に入る大きなカブは手に入らず、カブをマッシュするのにも一苦労。 それでも無事に任地で家族をよんでサンクスギビングを祝えました。そして娘に、息子に料理の仕方を教えておくべきだった自分に言い聞かせたものでした。


 この秋も昨年から友達と下宿をしだした息子が、単身赴任をしている私の元に訪ねて来ました。早速、キッチンで何を作ろうかと孤軍奮闘しはじめる私の傍らで、息子が「ママ、何か手伝おか?ぼく、このごろyoutubeで肉じゃがの作り方習って、なかなか上手になったよ」だって!! そうかネットビデオで習う手があったか。でも果たして味や香りが再現できたかな。さらにレパートリーが広がって、カレーライスやラーメンの他、何品かマスターしたとか。息子でも娘でもいずれ私に日本料理を作ってくれる日が来るのだろうか。


料理と言えないかもしれないが、おかゆを作るのも泣かんか難しい。乳幼児期しか日本にいなかった娘は普段は「お弁当はおにぎりじゃなくて、サンドウィッチがいい」とよく言って私を困らせたが。だってサンドイッチよりおにぎりの方が私には作るのが楽だから。しかし体調を崩すとおかゆと梅干しが欲しくなる。

この娘も大学の寮生活を始め、日本の味が恋しくなったご様子。それまでチーズ料理もしくはサラダのほうがカレーライスや煮物や和風ハンバーグより好んでいたのに、今はかりかり梅やふりかけを寮に送ってくれとのたまう。早くおかゆぐらいは自分で作れるようになってくれ。娘よ。

そして大学で日本語日本文化を教えているが、その職場で学生達におにぎりを作る講習をした。彼らは食べるのも初めてなおにぎりを、とにかく口に入ればいいとお米粒をこぼしながら、手に一杯ご飯をつけながら、一生懸命おにぎりを作ろうとしていた。其の姿が、微笑ましく感じられた。しかし彼らは寮でも実家でも作るんだろうかなと頭を傾け、早速質問「料理したことがありますか??」
「はい、私はリョウリがジョウズです」「どんな料理を作りましたか」「スクランブルエッグをつくりました」エエエエ!、、おいおいおい
こんなもんである。


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7/31/2014

侮れない田舎のスーパー! グローバル化の波がここまで


オソルベし! グローバル化の波がここまで? 世界に開かれたいなかのスーパー

いやあ、驚いた驚いた。ここ数年日本へ帰っているものの日常雑貨や食料品は買わないものだから、スーパーへ足を運んでなかった。そこでどんな物が売られており、どんな物が消費されているか、また何が田舎のじっちゃん/ばっちゃんに人気か把握しておこうと思いいざ出陣!!?





まず、店内には日用品(ドラッグストアで売っている商品を扱う)日曜大工用品 家電売り場、食品売り場、本屋、レンタルDVD屋、お好み焼き・鯛焼き・たこ焼きのとなりがドーナツ屋で、さらに特別催事場、お惣菜やが一つのレジで出来てしまう。米国の田舎に暮らしているものにとっては夢のような売り場が小さな町の高速インターそばにあった。
さらにその品数の豊富さは、こうしたスーパーマーケットの元祖であるアメリカの品揃えの遥か数歩先を行く。(ま、私の好みの商品が多いという意味でもあるが)
しかもその場で荷造りセットが用意されている。段ボール箱/ガムテープ/荷造り用紐まであった。便利便利、寮生活を始める大学へ進学した娘へ、日本の食料や炊飯器を送ろうとしていたから私としては渡りに船、至れり尽くせりのサービスである。 

しかも平日だが本日は土用丑の日で、長蛇の列だった。外にはみだして並んでいる列から熱中症患者がでて救急車出勤のおまけつき。ウヘー、こんな人口の少ない3万人そこそこの町=伝統を重んじる保守町のどこからこんな老若男女が集まってくるんだろうか。老人だとて侮れない外国産の果物や、紅茶、ハイカラな化粧品や、カタカナ文字がひしめく日用品が 山盛りになって買い物かごの中に見え隠れしている。

数年前に都市部のスーパーに昼中に行った時、地域住民と交わる糧をしらずに定年を迎えた寂しげなおじいさんが一人、ここにも一人と散歩がてら買い物をしていた姿をみた。きっとおばあさんは定年退職したおじいさんを横目に、友人とすきな温泉、サークルに励んでいるんだろう。

グローバル化が田舎の食卓ですでに始まっていることに驚いた。






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4/10/2014

米国都市の中で最も変化発展のあった町、フロリダ州タンパ、1800年代末期の繁栄復活か

北米に足を踏み入れて、早30年。
その間、訪れた都市や空港は数知れず、
車で、または1日数10マイルも歩いて通過した町、飛行機の旅で必ずと言っていいほどに経由した町いろいろありました。いつも利用する都市ニューヨーク、ボストン、
そしてお客様をつれて観光にポーツマス、ケープタウン、ニューポート、ハートフォード、ニューベッドフォード、コンコード、ナイアガラの滝、バッファロー、ニューヘブン

そしてちょっと遠出してプリンストン、フィラデルフィア、ワシントンDC、シャーロット、
バーミンガム、アトランタ、マイアミ、キーウェスト、アパラチア山脈、モントリオール、シカゴ、ケベック、アーリントン、ボルダー、チューソン、フラッグスタッフ、グランドキャニオン=ノースリム、ロス、サンディエゴ、サンタクルーズ、ポーランド、シアトル、ソルトレーク、等等。これらの各都市は、米国に長く住んでおられる諸兄、諸姉であれば、位置とどこの州ぐらいはピンと来るであろう。

そう、一度ならずともこの30年で訪れた北米の都市は枚挙にいとまがない
その中でも、ここタンパ市の最近30年の発展には目をみはるものがある。タンパベイからメキシコ湾岸にかかる小さなタバコ産業と軍港だったタンパが、現在ではフロリダ第2の都市になり、高層ビルが立て並び、四六時中渋滞が続く町に発展、拡大するなんてだれが想像しただろう。まるで新興国の大都市の開発を思わせる。

もともと、キューバと行き来の多かった港町で、葉巻やタバコ産業が1890年頃にさかんであった。その後、マイアミがコカイン他薬物輸入で1960年から1970年とボストン、サンフランシスコ、コロラドはボルダー等ではじまったカウンターカルチャーの隆盛にのってフロリダの文化の中心がマイアミに移ると、タンパの繁栄は色褪せていった。
そしてシニア市民の保養ぐらいの産業が残っていなかったこの町に何がおこったか。
1890年代の隆盛の面影、当時はホテルだった建物が現タンパ大学

1800年代末期の貿易、交易事情をものがたる地図



バンクオブアメリカのカスタマーセンター本部ビル


隣町の観光ビーチの町、セントピーターズバーグは私自身33年前、出来るだけ日本から離れて気候がいい留学先として選択した町だが、タンパはその東隣の町だった。そしてディズニーワールドのあるオーランドが東にあり、フロリダ州の首都テラハッシ市から車で5時間、そしてマイアミから車で3時間に囲まれた町だ。そんな30年前は目立った都市ではなかったタンパは、今はフロリダ州第2の都市となり、空港もずいぶん大きくなった。地元史を紐解くと1980年代後半から1990年代に莫大な都市開発をはかったとは、国際ビジネスと行政法を勉強する生徒の弁。そしてNYヤンキーズが春季キャンプ場にタンパを選んだの大きな理由だと、先日タンパでヤンキーズvsボストンレッドソックス戦を見て実感した。












新しく始める事業にも、大々的に事業の本部を移入する企業には、税金の優遇をすすめる、そして市をあげて事業開発に取り組んで来た足跡が見られる。








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3/04/2014

アカデミー賞 レッドカーペット入場取材から受賞を生で全編始めてみました。


滞米30年以上になるのに、こちらも生まれて初めて,

アカデミー賞の授賞式をレッドカーペット取材から全編観てしまいまし

た。


全米では進行役のエレンに話題集中。あれだけスターをもてあそんで、しかも憎


まれない彼女の司会進行、


しっかりスポンサーサムソンの宣伝しまくっていたのは好感度アップ、


twitterがオバマの個人夫婦写真


を載せた時より、67万リツイ


ッタされ、100万を瞬時で超


えた瞬間的にパンクしたという既



成事実を生で自慢げに話

していたのも面白かったですよね

(わずか1時間で130万以上のリツイートがされ、ツイッター史上初めて100万リツイートを記録したのである。翌月曜日までには300万がリツイートした)

ところで、ダラス映画主演男優のジャレッドのスピーチはスペイン語の教授の間では好評でした。特にベネ

ズエラ出身の先生には、


でも時間内にスピーチまとめなきゃスマートじゃないと思


われている風潮の中、ちょっと
出過ぎ。私的には12 years a 



slaveで助演賞をとったケニア出


の若手ながら颯爽として自分の言


葉を大事しながらのルピタ



のスピーチが生で感動しましたね









Gravity は受賞し過ぎ。たしかに映像では面白かったでしょう、特撮音楽編集、監督賞まで総ざらいだったもんね。これでサンドラが主演女優賞もらっていったら、
おいおいとなるところでしたよ。

作品賞の12years a slave作品賞は

個人的には受賞当然だと思います。日本の配給会社は、今週末に公開す

「それでも夜は明ける」なんて邦題にしたんだか??そののセンスを

疑います。しかも受賞式に、主演男優に光が当てられていなかったは残

念、彼の演技も光っていたのに。




主演女優賞は「8

の家族」のメリルス

トリープにとってもら

かった。



あの好演はんな言葉で

も表現できない程、際

立っていました。「ブルージャズミン」もたま

たまみましたが、主演女優のケイトにも、魅力

を感じなかったし、その受賞スピーチはもっと

首をひねりたくなりました。



みなさんは主演女優は誰に投票しますか


やはりジャズミン映画主オーストラリア出身

ケイト? 

でもあれは米国では社会背景が絡んでいてスト


リートしては面白くて受けるけど日本ではどう

かな。勝ち組から転落していった女性を描い


た題材は反応よかったでしょうか?

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3/02/2014

ストラジティックプラン戦略的・抜本的経営改革が求められているアメリカの私立高校/大学

経済が悪化し、経営が窮すると日本では「リストラ」ということばが其の年の流行語になるほど世を風靡した。
「リストラ」=首切りと日本社会ではとる風潮があった。「リストラの対象です」と名指された社員、契約社員は、自身の雇用存続がなくなると憂いてた。しかし「リストラ」はもともとReconstruction 再建の訳であるはずだから、「リストラ」イコール「雇用削減」ではないはずだ。このReConstruction ではなく、最近Strategic Planという経営改革用語を高校や大学という組織で働いていると耳にする。

実際、アメリカでも大企業の人事畑で働いていた義兄は映画「アメリカンファミリー」よろしく、数年単位で仕事先を転職し、90年代から2000年当初、次から次へと多数の人員縮小を会社の方針として強行し、また別会社でも同様の人員縮小の目的で雇われ、別会社でも強行してきたようだ。企業という組織は利益を得る組織でそれが目的なわけだ。

一方、学校、特に私立の小中高や大学というところは、経済が悪化するその荒波をまともに受け止め経営に反映されやすい組織である。収入が少なくなれば親達は、お金のかかる私立学校に子供送らなくなるからだ。しかし私設企業のように人員整理をして学校組織そのものの質の低下を招く訳にはいかない。なんせ学校の売りはその人員、教師の質であり、施設や環境であり、教育の質なのであるから。



私は、私立の保育/幼稚園から高校まで国際的に広がるある教育理念のもとに一貫経営されている高校で、さらに元々は慈善事業の盛んなキリスト教系のリベラルカレッジで働いている。その間にこのストラティジックプランを何度教員として説明されたか、ここでこのストラジティックプランとはどんなものをさすのかご紹介したい。

まず、それぞれの学校にはBoard Member 理事会がいる。学校組織には教師や校長、事務・学務・学生課の人事とは別に経営的関わっている内部監査の役目をする理事会がある。高校でも大学でもどちらでもこの理事会が言うことには、神経を峙てている。

こうした私立学校が企業や公立の学校と違うのは、この二つの学校に限ったことではないだろうが、上記の事実とは裏腹に自分たちの組織は盛んにボトムアップBottom UP であって、トップダウン  Tob Downではないと叫んでいるところだ。これは命令系統、アイデアや計画はあくまで組織として上の力があるものが命令指示する形ではないと謳っている。

 この戦略的プランの中で、一体どういったことが話し合われているか。基本的には、自分たちの学校が如何に人(生徒)を集められる魅力的な団体かをアピールする計画である。即時の経営危機には瀕していないものの、既存の組織を根本的に見直す必要があると、どちらも入学者数がひり続ける中で、どうしたら入学者をあげるかを理事会のみならず、教員も職員も親も話し合いに参加する。其のためには、魅力的な施設の充実、教育カリキュラムの見直し、宣伝効果をあげる奨学金、教員の研究費の増大。等をあげている。

1/08/2014

エスニシティー(民族)ごとに割り当てられた職業、アメリカンの社会混ざらないサラダボールだ

この国には長年の移民の歴史があることは、皆さんもご存知だろう。

日本からは日本の移民政策によって1900年代はじめをピークに北米へ
職と富を求め船で移民してきた。ハワイへ米国西海岸へ農業、主に果樹園の働き手となり、ハワイのパイナップル農園、カリフォルニアのオレンジオーチャード、さらに植木屋、庭師、やがては果樹園オーナーとなって現地に根付いたかれらを日系人と呼ぶ。

日系人の場合は、実際に母国へ戻らない覚悟でやってきた移民のことを一世と呼び、その子どもを二世と呼んだ。この二世世代は、ハワイ州から、ワシントン州、オレゴン州、カナダ西海岸へ移民先も移動していった、特に太平洋戦争間際、きな臭さが世を風靡し邸来ると、現地になじもうと一世たちは子どもたちを現地の学校に行かせ、英語教育をうけさせ、自ら選択して同化していった。日系人社会にあった寺院もご多分にもれず、各宗派のお教も聖書に頻出するLord, Salvation といったことばで英訳されていった。第2次世界大戦中、この一世や二世たちが、敵国の子孫ということでスパイの汚名をかぶせ、何もない砂漠や大平原の収容所へ送られた(これに連名国のドイツ、イタリア移民はわずかの例外を除き収容所には強制移住されていない)。この日系移民政策によって、日系二世や三世以降は祖語の日本語を一世から教わらず、戦後は収容所から全米へ、教育を受け様々な分野に散らばっていった。

一方、他のヨーロッパ言語を母語とする移民たちや、戦後に移民となってきた中南米、アジア系、アラブ系、アフリカ系の移民たちはどうだろう。かれらは米国で生まれた移民の子孫をファーストジェネレーションと呼ぶ。日系人で言うところの2世にあたる。よって日系一世は今でもここ北米では英語でもIsseiという言い方をして、日系人に対しては別の勘定の仕方をする。

さて、今回リポートをしたいのは、この移民たちの世代の数え方ではなく、主に戦後、北米にやって来た移民たちの職業だ。

まず、あるトルコの田舎町の話から始めよう。私の友人のトルコ人の話では、いきなり豪華な御殿の並ぶトルコの片田舎がある。どの御殿にも主人や働き盛りの男が不在だという。ある税金収集人が調べたら、どの家の男衆も米国に渡って、ピザ屋を営んでいるか、アメリカの主に東海岸のピザ屋で働いているという。実際、私の友人も、ご多分に漏れず一旗揚げんと、同胞の経営するピザ屋を点々と場所を変えながら働く。さらにボストンからワシントンDC米国まで、トルコの同じ町出身のトルコ人経営者ピザで北東部ギリシャ風ピザで覆われている豪語する。だから彼は仕事先にあぶれない。友人の兄弟はイスタンブール空港で働いていたり、トルコ国内で立派に働いているが、その兄弟よりも昼夜徹して米国のピザ屋で働く友人のほうが、実入りがいいらしい。だから、さらにトルコ国内より友人も米国へ呼び寄せている。



米国には、一つ民族でほぼ占有されている職業が多く観られる