4/27/2009

マスコミの暴走と存在価値とは??

一昨日、在ロンドンが長い知人に連絡を入れた。
時はG20が終わったばかりのロンドン。
彼の話によれば、ものものしい厳戒態勢ぶりと裏腹に,実は警察の横暴もあちこちで、ブログなどを通じて報告されているという。ミニ=コミュニケーションが、マスコミをたたく図がここにもあった。動画サイトなどで、その場に居た人々の報告が掲載されている。たとえば、デモ隊の中にいた雑誌記者がポケットに手を突っ込んで歩いていただけで殴り殺された事実が動画で明らかにされた。しかし警察は犠牲者は、心臓発作でなくなったの一点張り。

早速ことの顛末が日本でも報告されているかと、先ほどからインターネットで調べているが見つからない。マスコミは、日本でもアメリカでもネットで見る限り、反対者たちの横暴ぶりがニュースになっている。G20については、ロンドンの実際にそこにいた友人によると、反対者はマスコミが伝えるほどの目立った動きはなく、むしろそれを迎え撃つ地元警察の厳戒態勢は、ひどくめについて、東西冷戦を思い出させるほど地元民をビビらせていたそうだ。しかしそうした地元民の声は、マスコミには上がって来ない。
もうネットでも、大手のニュース源を検索せず、こうしたブログや動画サイトの方が信頼できると考えだした。

日本でも麻生邸を見学しただけで、事前に地元警察に報告し許可をとっていたのに、公安に逮捕された人がいたが、これもマスコミと称するテレビ報道 では警察発表の視点からしか報告されずにおわり、後から素人の動画などが散々出回って、やはり事実と違っていましたと謝罪する局まで出て来た。最近のマスコミの行き過ぎだったといわれるスマップの草薙の報道 もしかり。以前の山口百恵、三浦友和夫妻への執拗な報道を思い出していた。

アメリカのマスコミもまたしかりだ。オバマ大統領がイラクへ行って、米軍の過ちを謝罪をしたとか、トルコでは米国大統領として初めてイスラム教徒に受け入れられたとか、ミッシェルオバマのファッションの話を得意げに語ったりしたものばかりが目立つ。硬派の雑誌エコノミストでもG20を首脳をあつめた世界金融会議はパーフォーマンスだったとかの意見が掲載され、どんな話し合いがなされたか、声明文の掲載も全文にいたらなかった。何のためのマスコミだ!とさえいってみたくなる。どこの首府、主たる役所にはプレスルームがあって、いわゆる番記者が貼っている。しかしそれもなれ合いになって来て、最近はプレスリリースの掲載に留まった、どこのマスコミもいわれた事を掲載するのみで、突っ込んだ記事が見られない。突っ込んだ意見や、フォローアップの記事はよほどブログのほうが面白い。


硬い話題になってしまったが、マスコミというのは、マス=コミュニケーション、ニュースを出す方は少数だが、受ける方が大衆という多数になるから。いまそのコミュニケーションの存在意味が世界でうすくなっている傾向にあると思う。
逆に送る側の意見をきちんと伝えるならともかくも、いかにも記者は中立の立場で事実を伝えていますと言ったような表面的な姿勢のニュースはいかがなものだろう。中立だとの言葉は、まやかしだ。中立になれるわけがない。やはり伝える側の思いが入ってしまう、それが言語ではないか。どんなニュースも受け手として それを冷静に判断し、煽動されてはならないことを、忘れないでいたい。あるカップルセラピーがこんな事を書いていた「事実には、いつも3つある。当事者それぞれのリアリティー、本人のreality 相手のreality
そして双方共通のreality、同じ事実を共有し暮らしていても、それぞれの捉え方には、相違がどうしても出て来る、それが個性だと」また歴史学では「羅生門現象」とよんで、史実には多面性があると説いている。

むかしアメリカの大学院で、開発教育を教えて居る現場で働いていた。実際に生徒に開発問題に取り組んでもらうために、世界各地へ実習に送り出しているコースを得意としていた。ここでこんな事をいう事務の人にあって、私はひどく驚いて返す言葉がなかった。TVや新聞からの情報に話題がうつり、どちらも我が家にはなかったのでひたすら聞いていた。しかしその事実内容があまりに偏っていたので、「その情報源はどこか」とふると。____へいって来た生徒が地元の人間に聞いた。_____いう雑誌で書かれてあった。「あなたはそれを全ての鵜呑みにするのか」という討論になった。「じゃあ、テレビも新聞もないんじゃ、どうして世界の様子を知るの?」畳み掛けられた。生徒には、自分たちの目で耳で身体で経験してこいと送り出している事務の人間が、逆に情報は二時的な情報をまるっきり信じていることに、正直言って驚いた。

確かに自分で全ての経験するには、限界がある。それなら人から聞いたこと読んだことを、受ける側は、受ける側の主体性で取り入れて行かないと、ただ受動的に受け止めて行ったら、この情報過多な世界にどうやって対応して行けばよいだろう。
マスコミじゃなくて、小規模に伝え続けるニュースにも、その存在の理が、そこにあるではないか。


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4/24/2009

「子離れ」

昨夜から我が家に、お客さんが来ている。このお客さんは、ものを申さない。
そのかわりやたらと、家を嗅ぎ回り、先日も我が家でお泊まりした時は、庭にふらっと遊びにお出かけになったと思ったら、何時間も戻って来られない。いつも食欲旺盛で我が家のご飯がよほど気に入っているのか、いつも平らげ、他のさらにも手をだし、もっとくれとばかりにこちらに目線を向けてくる。
私は躾がなっていないとばかりに、育ての親をなじったりするのも、こんな時だ。

しかし反対の立場に立ってみると、自分の躾が出来てないか、逆にはらはらして、粗相をしていなかと気になって仕方がない。

これは我が家の犬のお話.マリーと姉妹犬のアイビーのはなし。(まぎらわしい??)

2匹の親犬は雑種で、他にも9匹もいる大家族だった。生まれて2週間で、娘が父親と結託して貰い受けて来た,現在3歳の子犬である。既にわがやの親分の猫とは、来てすぐ領土争いで、ばりかかれたので、いまだに猫を恐れている。
真夜中に二人もとい2匹でトイレへ行きたいと興奮しているから、こちらも2時近くに起こされて、ぼーとしていて鎖もつけずに出してしまったのが運のつき、、、暗闇を駆け回り、1時間近く帰って来なくて、私は寝不足。一匹だと大人しくなっている姉妹なのに、つるむと見境がつかなくなるようだ。子犬の時は柵も、電子網も埋めていない我が家の林を二人で駆け回り、ハラハラして追っかけ回した。学習していないのは、こちらの方でこりもせずちょっと油断をして、昨夜2匹とも鎖もつけずに庭へ用足しにと放してしまう。
先日はわが家の犬も先様へお邪魔した。心配していないと言えば、嘘になる。何度もお泊まりしているけど、それが前回、我が犬マーリーは他所様宅で吠えまくったと聞いものだから、だいじょうぶかしら、迷惑かけていないかしらとそわそわしだす。自分が「犬離れ」していないことを思い知らされたりする。


それがようやく何度もお泊まりに出す間に、遠くにいても自分の子供を信頼する事を学んでいった。

次は実の息子のお話。先日、本人の希望でアメリカから日本へ留学した。教師として生徒を送る時は、さんざん親に「心配するなあなたの子どもは、十分にやっていけるから」と安心させているのに。息子となると話は別。それは息子に親として子離れできてない証拠だろう。彼が家を出るぎりぎりまで「まるで戦地に息子を送る母親も、こうありき?」などと考えながら、夜中過ぎまで参考書類をそろえてやったりした。最近なにかと理由をつけてやっていない洗濯のしかた、皿の洗い方をいまさら教え込もうとしたが、これは失敗。端で見ていたらさぞ滑稽な母親をやっていた。

しかし当の息子に諭されてしまった。「ママは自分が恥をかくと思っているんじゃないの。だいじょうぶ。ボクを信じて」と、はいそうです。先祖の事をよく引き合いに出すアメリカ人の夫には「自分の子どもを信じるのは、自分を育ててくれた親を、またその親を信じ尊重する事、もっと安心しろ」と。

Playing For Change | Song Around the World "Don't Worry" from Concord Music Group on Vimeo.



4/11/2009

「学ぶ」ということ 

「学ぶ」ことについて、このごろ短絡的な意見をいくつか聞いた。

たとえば「勉強したからといって、何になる? 将来それで食っていくとか、職業につながる勉強なら別だが、OOしてどうする?」と日本の親がせっかく放送大学入り直して学ぼうとしている息子にぼやいている。

アメリカの高校へ通う子が「今、ボクが勉強しているのはお金のためだ。はっきり言って、お金のためじゃなかったらこんな勉強はしない。将来大学へ行けるため、将来収入のよい職業へつくためだ、」と。

今、「学ぶ」という事、知識の蓄え、その応用、経験から得るといったことが貨幣価値に変換されなければ、意味がないと「学ぶ」本来の姿が忘れられていると思う。

収入のため、衣食住を得て生きていくためのみ学校へ子どもを送り、教育を受けているのだろうか。

「学ぶ」ということで、人生を豊かにしていく
「学ぶ」ことで人間の深みをますこと
本や視聴覚にうったえた机上の理論ばかりが「学ぶ」のではないだろう。
しかも身体のほんの一部、例えば脳だけ、を使って、人は学ぶのだろうか。

「学ぶ」ことの愉しさをどのように次世代につたえるか、今一度考えてみたい。

成績の善し悪しを決める判断基準のためにしてほしくない。、
さらに親が「学ぶ」ことの面白さを見いだしていない子に、就職のためだ、お金のためだと力説するのもどこかむなしく、本来の「学ぶ」姿勢からさらに遠ざけているような気がしてならない。
「学ぶ」ことにお金がかかると、教育産業をウランでもしようがない。
ましてや知識のひけらかしのためでも、ないだろう。

結果をすぐ求める現在の傾向のなかでこそ、
貨幣価値に置き換える事が出来ない「学び」の重要性を今一度考えてみたい。





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