マスコミの暴走と存在価値とは??
一昨日、在ロンドンが長い知人に連絡を入れた。
時はG20が終わったばかりのロンドン。
彼の話によれば、ものものしい厳戒態勢ぶりと裏腹に,実は警察の横暴もあちこちで、ブログなどを通じて報告されているという。ミニ=コミュニケーションが、マスコミをたたく図がここにもあった。動画サイトなどで、その場に居た人々の報告が掲載されている。たとえば、デモ隊の中にいた雑誌記者がポケットに手を突っ込んで歩いていただけで殴り殺された事実が動画で明らかにされた。しかし警察は犠牲者は、心臓発作でなくなったの一点張り。
早速ことの顛末が日本でも報告されているかと、先ほどからインターネットで調べているが見つからない。マスコミは、日本でもアメリカでもネットで見る限り、反対者たちの横暴ぶりがニュースになっている。G20については、ロンドンの実際にそこにいた友人によると、反対者はマスコミが伝えるほどの目立った動きはなく、むしろそれを迎え撃つ地元警察の厳戒態勢は、ひどくめについて、東西冷戦を思い出させるほど地元民をビビらせていたそうだ。しかしそうした地元民の声は、マスコミには上がって来ない。
もうネットでも、大手のニュース源を検索せず、こうしたブログや動画サイトの方が信頼できると考えだした。
日本でも麻生邸を見学しただけで、事前に地元警察に報告し許可をとっていたのに、公安に逮捕された人がいたが、これもマスコミと称するテレビ報道 では警察発表の視点からしか報告されずにおわり、後から素人の動画などが散々出回って、やはり事実と違っていましたと謝罪する局まで出て来た。最近のマスコミの行き過ぎだったといわれるスマップの草薙の報道 もしかり。以前の山口百恵、三浦友和夫妻への執拗な報道を思い出していた。
アメリカのマスコミもまたしかりだ。オバマ大統領がイラクへ行って、米軍の過ちを謝罪をしたとか、トルコでは米国大統領として初めてイスラム教徒に受け入れられたとか、ミッシェルオバマのファッションの話を得意げに語ったりしたものばかりが目立つ。硬派の雑誌エコノミストでもG20を首脳をあつめた世界金融会議はパーフォーマンスだったとかの意見が掲載され、どんな話し合いがなされたか、声明文の掲載も全文にいたらなかった。何のためのマスコミだ!とさえいってみたくなる。どこの首府、主たる役所にはプレスルームがあって、いわゆる番記者が貼っている。しかしそれもなれ合いになって来て、最近はプレスリリースの掲載に留まった、どこのマスコミもいわれた事を掲載するのみで、突っ込んだ記事が見られない。突っ込んだ意見や、フォローアップの記事はよほどブログのほうが面白い。
硬い話題になってしまったが、マスコミというのは、マス=コミュニケーション、ニュースを出す方は少数だが、受ける方が大衆という多数になるから。いまそのコミュニケーションの存在意味が世界でうすくなっている傾向にあると思う。
逆に送る側の意見をきちんと伝えるならともかくも、いかにも記者は中立の立場で事実を伝えていますと言ったような表面的な姿勢のニュースはいかがなものだろう。中立だとの言葉は、まやかしだ。中立になれるわけがない。やはり伝える側の思いが入ってしまう、それが言語ではないか。どんなニュースも受け手として それを冷静に判断し、煽動されてはならないことを、忘れないでいたい。あるカップルセラピーがこんな事を書いていた「事実には、いつも3つある。当事者それぞれのリアリティー、本人のreality 相手のreality
そして双方共通のreality、同じ事実を共有し暮らしていても、それぞれの捉え方には、相違がどうしても出て来る、それが個性だと」また歴史学では「羅生門現象」とよんで、史実には多面性があると説いている。
むかしアメリカの大学院で、開発教育を教えて居る現場で働いていた。実際に生徒に開発問題に取り組んでもらうために、世界各地へ実習に送り出しているコースを得意としていた。ここでこんな事をいう事務の人にあって、私はひどく驚いて返す言葉がなかった。TVや新聞からの情報に話題がうつり、どちらも我が家にはなかったのでひたすら聞いていた。しかしその事実内容があまりに偏っていたので、「その情報源はどこか」とふると。____へいって来た生徒が地元の人間に聞いた。_____いう雑誌で書かれてあった。「あなたはそれを全ての鵜呑みにするのか」という討論になった。「じゃあ、テレビも新聞もないんじゃ、どうして世界の様子を知るの?」畳み掛けられた。生徒には、自分たちの目で耳で身体で経験してこいと送り出している事務の人間が、逆に情報は二時的な情報をまるっきり信じていることに、正直言って驚いた。
確かに自分で全ての経験するには、限界がある。それなら人から聞いたこと読んだことを、受ける側は、受ける側の主体性で取り入れて行かないと、ただ受動的に受け止めて行ったら、この情報過多な世界にどうやって対応して行けばよいだろう。
マスコミじゃなくて、小規模に伝え続けるニュースにも、その存在の理が、そこにあるではないか。
読み終えたら、こちらをクリックしていただくと光栄です。
ランク参加中。
時はG20が終わったばかりのロンドン。
彼の話によれば、ものものしい厳戒態勢ぶりと裏腹に,実は警察の横暴もあちこちで、ブログなどを通じて報告されているという。ミニ=コミュニケーションが、マスコミをたたく図がここにもあった。動画サイトなどで、その場に居た人々の報告が掲載されている。たとえば、デモ隊の中にいた雑誌記者がポケットに手を突っ込んで歩いていただけで殴り殺された事実が動画で明らかにされた。しかし警察は犠牲者は、心臓発作でなくなったの一点張り。
早速ことの顛末が日本でも報告されているかと、先ほどからインターネットで調べているが見つからない。マスコミは、日本でもアメリカでもネットで見る限り、反対者たちの横暴ぶりがニュースになっている。G20については、ロンドンの実際にそこにいた友人によると、反対者はマスコミが伝えるほどの目立った動きはなく、むしろそれを迎え撃つ地元警察の厳戒態勢は、ひどくめについて、東西冷戦を思い出させるほど地元民をビビらせていたそうだ。しかしそうした地元民の声は、マスコミには上がって来ない。
もうネットでも、大手のニュース源を検索せず、こうしたブログや動画サイトの方が信頼できると考えだした。
日本でも麻生邸を見学しただけで、事前に地元警察に報告し許可をとっていたのに、公安に逮捕された人がいたが、これもマスコミと称するテレビ報道 では警察発表の視点からしか報告されずにおわり、後から素人の動画などが散々出回って、やはり事実と違っていましたと謝罪する局まで出て来た。最近のマスコミの行き過ぎだったといわれるスマップの草薙の報道 もしかり。以前の山口百恵、三浦友和夫妻への執拗な報道を思い出していた。
アメリカのマスコミもまたしかりだ。オバマ大統領がイラクへ行って、米軍の過ちを謝罪をしたとか、トルコでは米国大統領として初めてイスラム教徒に受け入れられたとか、ミッシェルオバマのファッションの話を得意げに語ったりしたものばかりが目立つ。硬派の雑誌エコノミストでもG20を首脳をあつめた世界金融会議はパーフォーマンスだったとかの意見が掲載され、どんな話し合いがなされたか、声明文の掲載も全文にいたらなかった。何のためのマスコミだ!とさえいってみたくなる。どこの首府、主たる役所にはプレスルームがあって、いわゆる番記者が貼っている。しかしそれもなれ合いになって来て、最近はプレスリリースの掲載に留まった、どこのマスコミもいわれた事を掲載するのみで、突っ込んだ記事が見られない。突っ込んだ意見や、フォローアップの記事はよほどブログのほうが面白い。
硬い話題になってしまったが、マスコミというのは、マス=コミュニケーション、ニュースを出す方は少数だが、受ける方が大衆という多数になるから。いまそのコミュニケーションの存在意味が世界でうすくなっている傾向にあると思う。
逆に送る側の意見をきちんと伝えるならともかくも、いかにも記者は中立の立場で事実を伝えていますと言ったような表面的な姿勢のニュースはいかがなものだろう。中立だとの言葉は、まやかしだ。中立になれるわけがない。やはり伝える側の思いが入ってしまう、それが言語ではないか。どんなニュースも受け手として それを冷静に判断し、煽動されてはならないことを、忘れないでいたい。あるカップルセラピーがこんな事を書いていた「事実には、いつも3つある。当事者それぞれのリアリティー、本人のreality 相手のreality
そして双方共通のreality、同じ事実を共有し暮らしていても、それぞれの捉え方には、相違がどうしても出て来る、それが個性だと」また歴史学では「羅生門現象」とよんで、史実には多面性があると説いている。
むかしアメリカの大学院で、開発教育を教えて居る現場で働いていた。実際に生徒に開発問題に取り組んでもらうために、世界各地へ実習に送り出しているコースを得意としていた。ここでこんな事をいう事務の人にあって、私はひどく驚いて返す言葉がなかった。TVや新聞からの情報に話題がうつり、どちらも我が家にはなかったのでひたすら聞いていた。しかしその事実内容があまりに偏っていたので、「その情報源はどこか」とふると。____へいって来た生徒が地元の人間に聞いた。_____いう雑誌で書かれてあった。「あなたはそれを全ての鵜呑みにするのか」という討論になった。「じゃあ、テレビも新聞もないんじゃ、どうして世界の様子を知るの?」畳み掛けられた。生徒には、自分たちの目で耳で身体で経験してこいと送り出している事務の人間が、逆に情報は二時的な情報をまるっきり信じていることに、正直言って驚いた。
確かに自分で全ての経験するには、限界がある。それなら人から聞いたこと読んだことを、受ける側は、受ける側の主体性で取り入れて行かないと、ただ受動的に受け止めて行ったら、この情報過多な世界にどうやって対応して行けばよいだろう。
マスコミじゃなくて、小規模に伝え続けるニュースにも、その存在の理が、そこにあるではないか。
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昔もそうだったんでしょうけど、現代の情報というのは、どういう意図で発せられたものなのか、それで誰が潤うのかを考えないといけないので、難しい時代になりましたね!
返信削除何も考えないでいると、マスコミに先導された愚民へと落ちぶれてしまいます。
その上でこういうブログやリトラジのような存在の重要性が増すわけですね!^^
まさしく!! 今回の投稿本文も、主旨はそこでした。ただ一気に書いて後から編集しましたので、再度本文を眺めてくだされば有難いです。韓国のマスコミは弊害が、目立つ事はありませんか。最近、韓国からの留学と米国への移民があまりに多くて、移民法律事務所に居る友人も、学校でも働く私自身も、韓国の頭脳流出を憂いています。
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