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5月, 2009の投稿を表示しています

流言飛語、デマ(demagogie)

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Rumor にあたる日本語の「うわさ」をさらに解釈すると、 次のような用法がでてくる 流言飛語に 惑わされる 。 デマに 踊らされる 。 今回の「豚インフルエンザ騒動」が、マスコミや政府が率先して作り上げたなんてもう言ってられない、流説が住民一人一人の中に侵入して、恐怖をあおっているようにみえる。 「ことば」に伴う「恐怖感」が一人歩きし、さらに伝い手や、受け手の感情も巻き込んでどんどん増大になっていった。「関東大震災の流言もこうだったのでは」経験もないが、想像してしまう。 と、対岸から今回の「豚インフルエンザ騒動」を見ていたら、騒動は日本一国ではとどまらなくなっている。 感染者も死者(しかしこの感染者は合併症があったからと)もでているNYでも、学校休校などは各校独自の判断だ。上からのお達しで休校を決めた学校や、マスクをしていないと逆に白い目で見られるからと、マスクの着用を住民、電車の乗客全員が励行している日本の右倣え的なものは、アメリカにはない。 しかし北米の学校で意外な影響がでているのを昨日、耳にした。 ある日本語学会での談話。 こちらの日本語の生徒をこの夏連れて行くことになっていた各学校の引率の先生の報告をあげてみる。 「20人連れて行くことになっていた広島の高校から『今年は遠慮してくれ』と連絡が入り、引率の教師が成田でたまたま熱があって隔離された場合を想定したり、受け入れ校を変更することを考えると、昨日5/22日本行きを楽しみにしていた生徒には誠に残念だが、我が校の夏の日本旅行はキャンセルを決めた」 という先生たちが複数いた。かわいそうなのは、NYから数100キロも離れている片田舎で一生懸命、この夏の旅行のため何年も日本語を学んできた生徒たちだ。 また日本にいる親、親戚から「近所の目があるから」と日本へ帰ってくるなといわれた人もいる。さらに中国政府は日本に滞在する中国人に、中国政府が母国中国への帰国を禁じたそうだ。

死の近景 風のガーデン II

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前回は、日本語で死と向かい合うとどうなるかを英語で投稿した。(日本語フォント使用のコンピューターがダウンしていたためもある) 今度はアメリカで死と向かい合うとは、どういう事かをアイルランド=ドイツ系アメリカ人の夫の家族やインディアンやアフリカ系と様々な友人を見送った多少の経験から書いてみたい。 3月春先に、日本で平和を訴えて講演活動を続けていたベトナム帰還兵の知人があの世に召された。 関西、北陸、沖縄、東京から彼と親しい人々が死の間際にかけつけ、さらに数週間後には、葬儀のためにも数日間だけやって来られた。アメリカではとても奇特な人とうつる。どうもこちらでは、一旦人がなくなると、そこで関係が終わってしまう様に感じる人が多いせいではないか。 ドラマ「風のガーデン」で生前葬儀が営まれた。葬儀参列者の人数でその人がどれだけの人と交わり、生前に社会的影響を及ぼしていたかと、葬儀までわからないことがあるので、主人公の貴一は人々の赤裸々なすこし脚色がかった弔文を、恥じ入りながら、また笑い転げて聴いている。 このようにお世話に なっ た人の義理を返すという意味での 葬儀参列がアメリカでは見られない。 また家族がなくなっても、遺族はあまりあちこち知らせない。せいぜい地元新聞にobituary として掲載して、葬儀の知らせをするぐらいだから、新聞を普段から気をつけてみていないと知り合いが亡くなった事もしらない。ましてや死の報せを後から知っても、お線香をご仏前にあげに行くなんて事はない。 以前からハトコcafeさん(サイドバー参照)で何度も書き込みを入れているが、 アメリカでは特別な手続きをしない限り、州によって多少の違いがあるものの、一旦霊魂が肉体を離れると故人は、 実にあっさりと病院や葬儀屋の霊安室に運ばれ放置される。 そしてお通夜や葬儀で死化粧されるまで(またはそれさえもないことも往々にしてあるが)お目にかかれない。 衛生的な法律からだそうで。 さらに故人の遺志で、棺桶で顔を見せないでほしいというと、 本人不在で葬儀がまたは儀式としてでなく、簡単な友人の集まりのみで行われる事もある。日本のようにお香を炊いて、弔うまで昼夜そばに居てあげるという事は考えられないらしい。 さて本題にもどるが、倉本聰はドラマの中で、緒形拳扮するターミナルケアーの医師にこう言わせている。 「確かに大病院にて

死に直面したときのことばがけ

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Yeahhhhh,,,,,,,, I just came back from the Conference at the Princeton University. The main speakers are several Japanese linguist who teach Japanese language and colleges in Japan and the US, the well known play-writer, 平田オリザ、Oriza Hirata, from Japan. It was totally inspiring and I learned a lot from those presentations. We also had 4 hours workshop of dramawork and Japanese language learning through context and acting by Prof. Hirata. Prof. Hirata, told us that Japanese colloquium language is based on the people's interaction and depend on communicators relationship. Japanese language had conversation between close friends and family, but not much dialogues among strangers. I thought this is so true. But I believe that the current trend for Japanese language try to shift this conditions to avoid miss communication. The Japanese conversation does not have to have details information because the both parties share the same context of what they are talking about. But it