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またまた大嵐、今度は十月ハロウィーン前夜におこった大自然のトリックだろうか

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10月末にキャンプ生活を余儀なくされました。といっても雪嵐、まだ完全に凍った空気中の気温でないため、雪は重たくバサバサとまだ紅葉しきれていない緑の葉をつけたままの広葉樹を倒し、電気も水もネットも数日間、寸断されました。漸くガソリンスタンドが発電機などで回転しだし、あちこちネットを探して、すぐ滞ってしまう事務処理を進めているところです。 今年のモンタギュー、アマーストは本当に妙な季節な移り変わりです。 紅葉が2週間ほど遅れ、まばゆきばかりの紅葉を遠路からのお客さんにお見せ出来なかったのが残念だと思っていたところ。 例年ほどは日中の温度差が足りないのか、今ひとつの彩りの秋の景色の十月半ば、いつもより遅く先週、初霜がおりたばかりです。 農家の方はいつまでも作物が取れると喜んでいたのも束の間でした。 この週末いきなり大雪で、まだ彩りを終えて落葉していないメイプル等の広葉樹がばたんばたんと 重い雪に耐えられなく、電線と電話線を切断して倒木しております。 それによってあちこちの道路が通行止めになっています。 復興には1−2週間かかるとのこと。人間も冬支度を整えてなくて、除雪の機械を動かせるようにしていないのに、 ましてや動物たちはまだ冬眠のしたくも出来ないまま、 我が家の納屋にあった古新聞に、小獣がくるまって凍えていました。電気の生活、ガソリンに頼り切った暮らしをしていたことが露呈した日々でした。

福島の被災高校生を受け入れに、仙台空港へ。

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 一ヶ月半前のことです。福島市へ向かいました。 アメリカで教えている高校から、東日本震災で被災した高校生を受け入れたいとの依頼があり、 9月からの新学期に間に合う様、福島の高校生に決まって 迎えにいったのが第一理由でした。 また我が家の直線距離にして北30マイル(50キロ)にあるバーモント州ヤンキー原発の風下農民が、福島の農地土壌浄化で救援したいが、その可能性を探ってくれとの依頼もうけていたので、福島の農家の方に会いに行きました。 仙台空港に9月の初めに到着、 空港はもうすっかり復興したように見えました。 既に暗くなっていたので、宮城県を即通過して高速でそのまま福島入りし、農家の方々、メディアの方、NPO の方が待っている福島市内の果樹園農家のお宅へ到着しました。

日本のおへそ辺りで水のありがたさを実感

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白山神社のおおもと、中居神社の懐にて 水田を眺めた墓地にお盆詣り 阿弥陀ケ滝下流 いつまでも、いつまでも清い水をいただきたいですね。そのためには滝に打たれてきましたが、自分に何ができるでしょう。ずっと後世代までも、この水が流れていますよう。涸れる事なく、民を獣を土壌を 潤しつづけてくれるよう祈るばかりです。

記紀・万葉の地へ、歴史を辿る旅 その2

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雨が多かった夏休み、大和路へ足を運んだ。百済の地をちょっと訪れ、 その後日本へ帰ってきて訪れたい地。 昨年も近くまで行きながら訪れられなかった現在の奈良県桜井市、天理市、橿原市、明日香村へ赴いた。 震災後の復興、人々の安住の地であれとの祈りを胸に 石上神宮 石上神宮本殿門 黒塚古墳(柳本町) 箸墓古墳(昨年は卑弥呼の遺品出土と) 大神神社参道 石舞台古墳 橿原神宮    前方後円墳 崇神天皇陵   いにしへの詩人は何を見、農民たちは自然と、どのように対話してきただろうか。自然の神は荒くれ河川の氾濫、橋の倒壊、家屋/田畑/雑木林をたちまちの飲み込んで行く。それでも豊穣の実りをもたらし、私達人類はおごらず、立て直してきたではないか。 三輪山、耳成山、天香久山を眺める 高松塚古墳

古人の銘文に学ぶ、ユーロシア大陸端っこ日本の歴史を辿る旅 その1

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鹿野政直氏著の「近代国家を構想した思想家たち」のページをふと開いた。アマースト、日本の明治期のつながりをや新島襄始め、明治初期の米国に渡った人々を調べるために手に入れた本の一冊。 幕末から明治期に1838-1906年にかけて、こんな主旨のことを語った思想家がいた。 今の日本は彼等の期待にそえたか、それとも憂い通りになったか、以下の思想家たちのことばをもういちど読み直し、自問してみたい。 江戸末期、渡辺華山は、1838年に「憤機論」の中で 「今天下五大州中、亜米利加、阿弗利加、オーストラリア 三州は既に欧羅巴諸国の有と成。亜細亜州といへども、僅かに我国、唐山、ペルシアの3国のみ。その三国の中、西人と通信せざるものは、唯我邦(くに)存するのみ。万万恐多き事なれども、実に杞憂に堪ず。論ずべきは、 西人より一視せば、我邦は途上の遺肉の如し、餓虎渇狼の顧ざる事を得んや 。」と語った。 中江兆民は1901年ごろ 「フランスでヴォルテールやルソー、モンテスキューを学び、帰国途中アフリカ、アジアの各地を回った。文明国人であるはずの英仏人らが、威張りちらし、その土地の人々を「犬豚」以下にしか扱っていないのを発見したことであった。前者は彼に、革命や人民主権についての明確な認識をはぐくんだ。後者は、いわゆる文明が侵略と裏腹の関係をなしていることを、その脳裏に刻み付け、アジアの人間としての自覚を深めた。帰国後、フランス学を教えるための学校仏学塾を開く一方、いくつもの漢学塾に入門し、漢学修行に精を出した。そこには、仏文を翻訳するにあたり訳語をみがくという意味と、 儒教や漢訳仏典を主とする中国の伝統思想に、民権や自由への根を探ろうとする意志がはたらいていたに違いない。彼には、福沢のように西洋文明をモデルとせず、それを超えるより普遍的な文明をという志向が打ち立てられていた 。」 1906年、岡倉天心は英文「茶の本」の中で 「平均的な西洋人は自己満足に安住して、自分たち以外の文化を理解しようとせず、茶道についても、例によって風変わりで子供じみた東洋のさまざまな奇習のひとつにすぎないと片付けてしまうことだろう。日本がこの平和でおだやかな技芸にふけっていた間は、西洋人は日本のことを野蛮な未開国だと見なしてきたものである。それが、近頃になって日本が満州を戦場にして敵の皆殺しに乗...

広島記念式典に参列して。2011夏、旅日記その2

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高校生が脱原発の署名を訴え、快く応じる市民の方 20年ぶりになる広島の原爆の日、8/6近辺の行事に参加して来ました。 3.11以来の脱原発の勢いでにぎやかなのか、ここ数年8.6の祈念式典自体がお祭り騒ぎの賑わいなのか、計りきれない広島の街。全国から集まった人の気に当てられ帰ってきました。 旧友から「今年は広島盛り上がるよ!!、ぜひ8・6は広島へ」との言葉に応じるように、広島へ舞い降りました。 まずは広島平和ドーム前に慰霊を捧げました。懐かしい顔、新しい顔を認め、旧友がソーラー電気で供給するコンサートに参加する前に、 まずは平和公園を一回り。 韓国、朝鮮人被爆者慰霊塔 韓国、朝鮮人被爆者慰霊塔が平和公園内に移動していました。さだこさんの折鶴塔のすぐ手前、諸宗派の墓前の隣へ。韓国朝鮮文化の死者を見送る亀の上に鎮座しています。   広島原爆の日の前日、被爆者の方が木陰で子どもたちに体験談を話して聞かせています さらに目新しいのは、広島市立平和記念館が大きくなり隣のビルから入館して、体験談をかなり取り入れていること。子供が夏休みにもかかわらず、学校、自治体単位で見学に来ています。 ぜんぜん人気がなかったけど、平和記念館の裏あたりの平和公園内に国立被爆者慰霊館がありました。展示というよりは、ここで一時涼んであの日に思いを馳せてくださいといった感の建物には、瞑想の部屋のような遺影や故人のお名前が連ねてあります。 川沿いではあちこちで野外コンサートが8/5にあります。右翼も中革もいるようで、機動隊私服警官が暑苦しく平和公園を囲っています。 8/5夜には旧友の用意した市民運動の交流会会場で宿を借ります。 しかし交流会も各種講演会も、イベントにもいっぱい出席したかったのですが、時間がずれていたり、情報が入らなかったりと思い通り参加できませんでした。 こんなとき、広島駅前で広島市の職員が情報を集めておいてくれたらよかったのに。もっと駅前で資料をいただいたとき、強く要望すればよかったかな。それは広島市のみならず、ほかの市町村でも感じます。せっかくJR駅構内に市の観光案内があっても、市民の行事までは把握しておらず、もっと広く市制のみならず、住民の情報版の役割をすればといつも願って...

夏休み旅日記 〜韓国・百済の地を訪問

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シン 신 セ 세 ルル 를     チョッ 졌 ッスm 습 ニ 니 ダ 다   .     カm 감 サ 사   보살핌 고마웠습니다. 즐거웠어요. 日本へ帰る前に20時間たちよったソウルで、叔母と呼んでくれる韓国人で自称姪っ子のようにかわいがっていた元下宿人とその母親に市内案内を頼み、いざソウルへまいらん。 ソウルでは、1980年代オリンピック前に何回かわたったソウルの様子とは打って変わり、日本のバブル期を思わせる経済成長ぶりと、町の勢いに圧倒されました。しかしその間を縫うように息づいていた地方文化に安堵もした。また昨年訪ねた開発甚だしい沖縄の開発ぶりも脳裏に思い浮かべもしました。 今回案内を依頼したのは、百済、新羅、高句麗三国に由来した史跡観光もしくは、その時代のなごりのある仏像鑑賞。帰国の間に、地元ソウルの環境運動に関わっているという下宿人に韓国の環境問題の取り組みも尋ねた。 母親とやってきた私をアメリカのオンマとよぶ下宿人は、はしゃいであちこち案内すると躍起だった。