3/09/2009

母となる瞬時(とき)II 自宅出産編

出産は自宅と決めていた。しかも「たのしいチベット医学の本」をたまたま出産前に訪ねて来てくれた友人にもらった本を一気読みした。それによれば、生まれでて来る赤ちゃんに出来るだけ刺激(目にそして全ての感覚に)をあたえないように、さらに母体を守るため、暗がりで4週間過ごすことに、大賛同して、励行すると固く心に誓っていた。

陣痛といっても七面鳥を食べ過ぎた程度に夫は考えていて、朝をまって感謝祭の祝いで散らばっている助産婦を呼び集めた。

まず一番遠くにいた夫の母が最初に駆けつけ、メキシコ国境で助産婦の訓練を受けたドイツ人助産婦が、人類学者で各国のお産を研究しているもう一人の助産婦を携えやってきた。一度も超音波の診察も受けず、しかも胎児の呼吸を聴診器に毛がはえたもので聞いただけだったが、子どもは何事もなく生まれてくると疑わなかったのは、今から思えば不思議と言えば不思議だ。

そして子どもを宿している間に、助産婦の自宅への定期健診と同時に、お産介添え人の訪問も何度か受けた。私たちがどういう精神状態になるかを予測し、お産を無事に乗り越えられるよう母となる、父となる準備や生まれ出る生命との出会いの心構えみたいなものをいろいろサポートしてくれた。また私が意識を平静状態から脱したとき、どうなるだろうと相談にのってくれ「きっと日本の童謡を歌いだすかもしれない」という突拍子もない提案に、では自分も日本の童謡に付き合うから、練習のためテープに吹き込んでおいてくれと、ご親切に申し出る始末。数ヶ月も続いたつらいつわりを、童謡はいつも私の心を和ませてくれた。そこには妊娠中に一度激励に訪ねてくれた実家の母も、いつも心の支えとなってくれてた叔母たちもいなかったのに、初産への不安がなかったのは、この出産介添人の友人と、助産婦や義母の温かい励ましがあったからだろう。

こどもとの初対面のドラマは半日が過ぎようとしていた、翌日の昼過ぎにしらせを聞きつけた友人が握り飯と弁当を持参してくれた。助産婦たちは相変わらずのんびりとお茶を別室で飲み、初産の長丁場に構えて、みなリラックスしたものだった。夫や義母、介添え人に腰をさすってもらいながら、定期的にやってくる陣痛をやり過ごしている。このときの私の顔は、痛みに多少引き連れこそすれ常時笑っていて、後で写真をみると生まれてきた赤子そっくりの顔で輝いていた。やがて私のうなっていた声色がぐっと低音になり、英語から日本語で喚きだしたのをきっかけに、助産婦2名、介添え人、夫、義母はそれぞれ定位置についた。義母は薄暗い母屋にあつらえた寝室の隅に、いつの間にか椅子を持ち出し、いつでも何か必要なものがあったら準備できるように特等席でちょこっと座っている。

お釈迦様の御母堂マーヤに倣って立ち産でと意識のどこかで自分に言い聞かせながら、立ち尽くしている、急におなかの奥からひきずられるようにしゃがんでしまった。「この位置ではうまく赤ん坊が受け取れない、もう一度立ち上がって」と助産婦の一人がリクエスト。
そんな事いわれても、『無理』だとばかりにいやいやをしている私。今度は;身体の奥からセンセーションが巻き起こり、私は童謡ではなくベートーベンの第九交響曲、「歓びんの歌」を内側から押しだされるまま無意識に口づさんでいた。すると受けをねらった訳でないので,一同、どっと笑ってリラックス。

立ったり、しゃがんだりで賛美歌ハレルヤやジョンレノンのDon’t Let me down愛の歌を歌いだした。誰が予想しただろうか。私の右左に夫と介添人、前後に「暗すぎる」とも「しゃがみ産では赤子が見えにくい」とも言わず、私の希望を叶えてくれた助産婦たちが馬だちだったり、しゃがんで用意していたりしたなか、無事息子はこの世に誕生した。

それはそれは、とても神々しかった。ことばで語ろうとすると、陳腐になってしまう。義母は暗がりのはずなのに、部屋の角でこれらの光景をつぶさに見守っていた。息子はするすると目前に待機していた助産婦から夫へ、私の腕にやってきた。ローソク一本の暗がりであるのに、すべてが感覚で伝わってくる。そのとき、介添人の友人は真っ青に光り輝くSoul Light 真っ青な魂の光が赤ん坊の口の中へ、部屋中をぐるぐる回ってから入っていくのを見たという。彼女に言わせると、赤チャンそれぞれ魂の色が違っていて、お母さんの胎内からオレンジ色を発している子もいたりするそうだ。



夫は、「出産があんなありがたい気持ちになるなんて予想だにしなかった。悟りの境地もこれに近いのではと思われる精神状態になった」と、ことあるごとに知人たちに語っている。このとき用意していたフィルムはローソクの光でも撮影できるはずなのに、その直後はシャッターをおせずにいた。しかしその場を共有した誰にも、生まれ出たばかりの生命は、光を発しているように見えた。後産をおえて、麻酔なしで裂け口を縫うこととなったが、夫はその場で子どもと私を支えると言い張り結局、息子に小さな掌でギュッと握り締められながら、夫の祈りの声を聞きながら、子どもと二人でこの難行を意識も失わずに乗り切れた。この瞬間ときに私は、何が何でもこの子を手離さないと誓った。小さな掌と、目もまだ開けられないはずなのに、どこか笑みを含んで見えるこのときの息子の顔は、まさに柔和な仏像の表情であった。夫と私ははじめて親となる瞬間をこうして迎えた。また出産後、寝室の外でようやく撮影することができた分娩立会人の顔もみな、写真でもわかるほど光り輝き満面の笑顔を浮かべていた。

その後数週間、私はチベットや日本の昔の例に倣って、赤子と平和なときを誰にも邪魔されずに過ごすことができた。義母に祝いの訪問客を玄関先で丁重に断り続けてもらったから。夫に食事や下の世話をしてもらって母屋である寝室から4週間、息子との世界にひたり一歩もでなかっったのは至福の時間であったし、今でも何よりの宝物だ。

二人目の娘のときは、日本の手慣れた助産婦さんに助けられ、わたしの日本の実家で母と息子、夫や父と娘の魂がこの世に生まれる瞬間を共有できた。今回は魂の光こそ見れなかったが、手際のよい日本の産婆さんにとりあげられた娘は、生まれ出た床で数週間を過ごし、その間、夫と私はやはり不思議な経験をした。生命を授かるということを夫婦ふたりだけでなく家族みなで共有できたことはとても幸運だった。娘は祖母の眼前でこの世に生をうけ、兄と祖母に臍の緒をきってもらい、それまでおろおろしていた典型的な日本男児の実父である赤子の祖父も、暗がりで娘と対面することができたのは、みなの気持ちがひとつとなった瞬間だった。しかもこうした環境がそろってこそ、はじめて体験できた在り難い生を授かる瞬間だった。

今この子たちが私の掌中から、一生懸命もがきながら抜け出ようとしている。「僕は・私は一人の人間なんだよ」「一人で歩かせてよ」と叫んでいる。肉親から、一歩距離をおいた保護者であれとせまってくる。もう少し肩の力を抜いて見守ってあげようと思う。



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